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12/06/2010

Long good-bye




このblogを始めてもう2年近くなる。
振り返ると毎月の更新準備、inteplayの取材、などなど…
音楽を通じ様々な事柄の本質、意味、更にはその時代背景や社会環境、そして文化。
その様なものを追求し掘り下げ、稚拙ではあるが「文章」と言う形式で読者に届けてきた。

私的事情により、私(DJ)のレビューは今回をもって最終回とさせて頂きます。

このblog自体は今後も普段と変わらず継続していきますので、
今後とも御愛読願いたいと思いますので宜しくお願い致します。




線路は続くよ何処までも
野を超え 山超え 谷越えて
遥かな街まで 僕達の
楽しい旅の夢 繋いでる


線路は唄うよいつまでも
列車の響きを 追いかけて
リズムに合わせて 僕達も
楽しい旅の詩


唄おうよ



Je vous remercie!!


DJ

10/28/2010

~interude~プランテーションに降る雨



今日では音楽を聴く手段として「ネットからダウンロードしたり、
レンタルCDを借りて音楽を楽しむ」という方法が殆どかと思います。

Smoe these Days I'll Be Gone 。

デルタ・ブルースの父と言われる「チャーリー・パットン」が1929年に
録音した曲で当時はテレビもラジオ無かった時代です。人々は大規模農園
(プランテーション)で過酷な労働を強制され唯一の娯楽として、パットン
の様に各農園や飲み屋で歌を歌ったり楽器を演奏する音楽家、と言うより
「芸人さん」のショウを観るのが楽しみだったようです。

ブルースと聞くとネガティブなイメージが有りますが、この頃の音楽
(後にブルース、カントリー・ブルースと呼ばれる)は基本的には何でも歌い、
それを人々の日常生活に関わる「ものまね」を取り入れ演奏しながら歌ったそうです。
(例えば、馬を引く足音のリズムをギターで弾き、彼らの信仰する教会音楽にもじったり等)
この曲も各地を旅して廻る音楽家と各地の農園に仕事に出かける男女間の寂しさ、
それを教会音楽をもじったと思われる作品です。




彼の作品は1929~34年の間に録音されていますが,当時の録音技術は
現在の様なものではなく、また、再生ソフトはゴム等を混ぜシェラック
と云うものでかためた「SP盤」である為、非常にノイズが多く聴き難いです。
CDでもリマスターされ現在でも簡単に入手できますが、やはりノイズは…。

亜熱帯のプランテーション特有の雨だと思って聴いていれば……


10/03/2010

虹のプレリュード



何か作業しながら「音楽を聴く」こんな習慣がある人もいるであろう。
残念ながら筆者にはその様な習慣がないのでよく解らないが、
音楽によって気分を高揚させ効率良く作業を進める、と言ったところであろうか?

「Work Song」黒人音楽の1つのこれはプランテーションにおける単純・重労働より気を紛らわす為、また仲間同士の位置確認・作業の進捗状況・その他世間話に単純な節を付け仲間同士でやり取りする(コール・アンド・レスポンス)ところから発展した音楽もやはり作業効率を促進させる所に重点が置かれている。
また、スーパー等のタイムセール時には必ずと言って良いほど「T-SQUARE / TRUTH」が流れているのも、その楽曲が持つ何か期待感・高揚感によって消費者の気分を高揚させ販売促進を促しているのであろうか?
(T-SQUAREファンの方ごめんなさい:涙)



豊島区にあるアパート「並木ハウス」に仕事場ある彼の部屋にもターンテーブルがあり、ターンテーブルの上にはクラッシクや映画音楽のレコードがあり1日に同じ曲が何度もかけられていた。
仕事場が変わっても彼の部屋には必ずターンテーブルがあり音楽が流れていたが、しかしその音楽を聴いているのは仕事中の彼だけではなく、彼の原稿をイライラしながら待つ複数の出版社の人間だった。
彼の名前は『手塚 治虫』。



彼の作品には音楽よってインスパイアされた作品が数多く存在し、彼のライフワークであり代表作品の【火の鳥】は言うまでもなくストラビンスキーの「火の鳥」からインスパイアされた話はあまりにも有名だ。

ショパンの練習曲10-12(第12番)をモチーフとし、ロシア軍のポーランド侵攻・陥落下の音楽家を描いた【虹のプレリュード】。ラストのフレデリックがポーランド陥落の知らせを聞き祖国の為に作曲した、革命のエチュードのページは一切のセリフを削除し、見開きページを大胆に使いモチーフであるショパンの曲想を絵よって表現している部分は圧巻である。
また、主人公のルネは女性でありながら男装をしている(リボンの騎士もそうであった)点などは強権的な父親への希薄さ、しいては戦時中・戦後に幼少期を過ごした体験とも受け取れる。





他にも【ブラック・ジャック】では楽曲そのものをテーマにせず楽器等に焦点をあて、彼の専攻であった医学を舞台装置としテーマである生命の尊厳を問い、【アドルフに告ぐ】に至っては3人のアドルフを中心に細かい人物設定により物語が進めらる点などはオペラさながらである。
そして彼の未完遺作【ルードウィヒ・B】は本人が好きであった音楽家であり本人と似ていると言う:ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンを主人公にした作品。先に挙げた【虹のプレリュード】と同じように音楽家を描きながらも音楽を視覚的表現の限界に挑んだ作品でもあり、また登場人物の視点を借り多次元的に物語が進んで行く辺りは大変読みごたえある作品だった故に、絶筆されたのは非常に残念である。


この様に手塚治虫と音楽との接点を本人作品ごとに楽曲と検証し、クラッシック音楽に興味を持ち理解を深め演奏会などに足を運ぶ、と言うのも楽しいかもしれません。
最後に彼が音楽にアイデアを求めた他に、レコードを大音量に流し原稿待ちしている出版社の人達に見つからないようにこっそり現場から抜け出していたとか…

実はこんなことにも音楽の力を借りていたなんて云う話も有るとか無いとか???





【参考資料】
・火の鳥 (角川書店)
・虹のプレリュード (講談社)
・ブラック・ジャック (秋田書店)
・アドルフに告ぐ (講談社)
・ルードウィヒ・B (講談社)

9/05/2010

神降ろしの笛 (裏interplay Ⅱ)



interplay、interludeに続きまた、「武蔵野音楽大学 楽器博物館」の話を。
「暑いから他のネタが思いつかないのでは?」と思うでしょうが、
いやいや、ここでの見学の話はつきないです。ホント(汗)


ピアノ、管弦楽器のフロアの見学を経て「ヨーロッパ各地の珍しい楽器」のフロアへと進んだ。ワイン・グラスが箱の中に並んだ楽器【グラス・ハーモニカ】の説明を受ける。

楽器そのものには触れられないが代わりに「大小2つのワイングラス」と「水が入った容器」が置いてある。「水で指を濡らし、指でグラスの縁をなぞる様にすると摩擦によって音が出ます」と博物館員。

各自指を濡らし音を出してみると~ワイングラスの持つ独特の響き、緩やかに音が立ち上がり(attack)、とても柔らかい倍音が「香り」の様に広がってゆく…
なんとも言えない音色。パガニーニは「何たる天上的な声色」と言ったのも解る気がする。

【グラス・ハーモニカ】は体鳴楽器・擦奏体鳴楽器の分類で、グラスが静止状態の物(ミュージカル・グラシズ)とグラスが回転する(グラス・ハーモニカ)の2タイプある。厳密に言うと今回見学したものは「ミュージカル・グラシズ」の分類に属するものと思慮。そして、この楽器を発明したのはベンジャミン・フランクリン(※凧あげの人です)である。


なんとも言えない優しい音色を楽しんでいた我々に博物館員の女性は一言、
「実はこの楽器、一時期演奏が禁止された時代があったそうです…」




幼少の頃、こんな事を言われたことがないだろか?
「夜、笛を吹くと天井からヘビが出てくるのから、もう笛を吹くのを止めなさい」と。

人の可聴領域音は15、16Hz~12,000HZz(12キロHz)で、音波振動は鼓膜から槌骨
(つちこつ)・砧骨(きぬたこつ)・鐙骨(あぶみこつ)を経て「蝸牛(かぎゅう)殻」の
毛細胞が敷き詰められている蝸牛管に伝達される。その毛細胞が音波振動の刺激を受け
聴覚神経通じて脳の聴覚中枢に伝わり人は音の高さを知覚する。

人はこの可聴領域外の音は耳では聞こえないが、しかし、身体で感じる事が出来るのは
上記の聴覚神経路とは「別な神経路を経て」伝わった音波振動を脳が感知するからだそうです。



日本最古(縄文時代)の楽器の中に【石笛(いわぶえ)】と云うものが出土されている。石笛とは人工的に「孔」を開けたものや貝類等によって孔が開いた石を下唇に当て、息を吹き降ろすことにより音が出る。(フルートなどのエアリードに近い楽器と思われる)

神社ではこの石笛を使用し「神降ろし」の儀式を行っており、この笛が発する「高周波の音に危険性」を感じて使用の際に数々の決め事・作法が実在し、それらをクリアした者だけにその使用が認められる。


その中の1つに石笛には「日没後は吹いてはならない」と戒めある。夜、石笛を吹くと「神霊」ではなく「悪霊」が集まってくるからだそうだ。視点を変えて考えるとこの時間帯は、外界からの刺激が減少したり、交感神経から副交感神経へと切り替わり体温が低下する時間だ。この笛の持つ高周波の音に身体をさらす危険性を言いたかったのであろう。

上段に記した「ヘビが出る」というのは恐らく、このような伝承が地域によって変化し受け継がれたものであろう。また、石の「色」によっても決め事があるそうで、これは高周波の周波数帯による心理的影響の違いについて警告したものであろう。


グラス・ハーモニカについては演奏者や愛好家から精神的変調・体調不良を訴える人々が続出し、嘘か本当か判らない話・噂が広がった。そして「天使の歌声を持つ楽器」と言われた楽器が、「悪魔の楽器」と呼ばれて19世紀初頭には急速に衰退していった。

現在に至ってもその理由は判明されていないとか。しかし、現代ではガラス職人などの努力により空白の時間を経て復活し、演奏会やグラス・ハーモニカの為の楽曲なども作られている。


時代に埋もれていった楽器。
本当に土の中に埋もれていた楽器。
どちらの楽器もその時代にその音色が人々の心を捉えたことは、
時代を超え現在でも理解出来るであろう。






【参考資料】
・埋もれた楽器~音楽考古学の現場から~ / 笠原潔:著 (春秋社)
・カラー図解 楽器の歴史 / 佐伯茂樹:著 (河出書房新社)

8/29/2010

~Interlude ~埋もれていった楽器達の果てに



人類が古くから楽器として利用していた【動物の角】。
軽くて丈夫で中が空洞となっており、先端を開け息を吹き込めば直に音が出る。
また角の根元は大きく広がっている為、音が増幅され大きな音が出るというメリットが得られる。
このような音が出る道具は狩りにより生活の糧を得ていた【狩猟民族】の間で生活において、
狩りにおいて【合図】として用いられた。

その昔フリューゲルホルンは「翼の角笛」と呼ばれ狩りを行う際、両翼から音を出し獲物を
追い詰める合図の狩りの道具であった。中には「指孔」(指で直接押さえる孔)を持ち様々な
合図を持つ道具も出て来た。そして狩猟の道具は【軍隊の為の道具、戦の為の道具】へと変化してゆく。


古代エジプト、古代ローマの時代には原始的な【金管楽器】が登場してくる。
中が空洞であった動物の角は管楽器としてとても都合が良い素材であったが、動物の生態や成長によって
角の形態が異なる点、そして真直ぐな形を作る事が非常に困難であった。それらを補う為、金属や木材を
付け足す方法が用いられるが、木材は中身を刳り貫く作業や、野外での利用が多い為湿度によって影響を
受けやすい点、一方金属の成型加工の技術の進歩などにより次第に金管楽器の発展へと進化していく。

しかし楽器と言ってもやはり未だに、戦の合図や儀式の範疇である。
特に十字軍遠征の時代にイスラム勢力軍(オスマン・トルコ軍)が「金管楽器と打楽器」鳴らしながら
攻めに来たのは有名であろう。他にも第一次世界大戦時イギリス陸軍の最前列に「バグパイプ」を
装備した部隊が敵の部隊に演奏しながら突き進んでいく…など。




19世紀に入り軍楽隊が結成されと、今までの木管楽器は木製だったものが次第に「金属」で
製造されていくようになる。現在では低音金属楽器は「チューバ」などが挙げられるが、当初
この様な楽器が未だ開発されていなかった為低音パートを担っていたいたのは以外にも
「コントラ・ファゴット」であった。


しかし、木製のファゴットの難点として「湿度の問題、行進しながら歩行演奏をするという
楽器の構造の問題」を補う為に開発されたのが、【リードコントラバス】である。
素材は金属製で、コントラ・ファゴットの操作性(遠い部分にある音孔をキーパッドによる遠隔操作出来る)
クリアしたものだ。更に歩行演奏の軽減として金属の厚みの問題、金属製マウスピースを付けたりしたものが
【オフィクレイド(上段写真)】へと進化したもの。
他にもダブルリードを持つ【サリュソフォン(下段写真)】なども開発されてきた。
番外編ではフルメタルのオーボエ、クラリネット、バスクラ(バスクラリネット)などもあったようです。


「リードコントラバス」「オフィククレイド」「サリュソフォン」の発展・進化し現在存在するのが「サクソフォン」である。


リコーダーなみの簡単な操作性、木管の柔らかさを持ち耐久性ある金属製のボデイ、
各時代の難点をクリアし600個以上のパーツから構成され複雑なメカニズム持つこの楽器の背後には
『時代と共に消え忘れ去られ、埋もれていった楽器』の発展の上に成り立っていた。




最後に「フランス生まれでアメリカ育ち」の「サクソフォン」。
フランス、アメリカを筆頭にイギリス、ベルギー、スペインを中心に広く使用されたが、ドイツ、
オーストリアそしてイタリアでは開発当初は使用されていなかった。ヨーロッパという地理的な
視点から考えても、この楽器が使用・普及されてもおかしくない筈だが?何故??


推測ではあるが「サクソフォン」が使用・普及されていない地域の1つの特色として、
「カトリック教」が普及されている地域であったと同時に「フリー・メイソン」の活動が
禁止されていた地域でもあったのは偶然であろうか?




8/02/2010

夏祭り



毎日猛暑である。
何もしていなくても汗が…冬の寒さが戻って来ないかなぁ~、
などと考えている毎日(恐らく、冬には逆のことを考えると思う)
この時期各地で色々な夏ならではのイベント・行事が行われているが、
一番身近でそして誰もが一度は参加したであろう…『町内会のお祭り』。
御輿(みこし)に山車(だし)に、ワッショイ!だ(意味不明)



地域によって祭りの起源も千差万別だが、祭神:牛頭天王(こずてんのう)を祀る京都八坂神社(祇園社)を流れとする神社が「疫病除けの神」と信仰を集めた所が全国各地に在るようです(筆者の街もこの流れを受け継いだお祭りです)。
漢字で「まつり」は「祭り、祀り、奉り、纏り、政り」であり、個別に意味合いが変わっていき英語では「feast、festival、ceremony、event」などとなる。

そして祭りと言えば「祭囃子」。
これも祭の起源同様地域より異なり各地域によって発展してきた。演奏形態もやはり様々ではあるが、和太鼓(締太鼓など)を2人以上の打ち手を中心として笛(篠笛、能管など)・鉦を演奏する形態が多く見受けられられる。

(筆者の街では11町会ある神輿[大人神輿、子供神輿あわせて30基近く]が境内から出御するのを待つ様に各町会の山車が街道にずらりと並でいるのは圧巻である!そして神輿と共に各町会へと戻っていく)

「祭囃子」を英語で訳すと【musical accompainiment】、そして「囃子方」は【musician】である。
accompainimentは「accompainy:伴奏する(動詞)」の名詞で「伴奏、伴奏部」の意味であるが、
ちょっと違和感があるのは私だけであろうか?なぜなら「祭囃子」と云う言葉の背景に神社・寺社、
氏子・檀家などの地域的信仰の伝承をイメージするからではないだろうか?



pops、jazzなどで使われる「裏コード」(ドミナント・セブンスコードをドミナント・モーションを利用し共通したトライトーンを持つコードに置き換える代理コード)。

【裏(うら)】という言葉からイメージさせられる...何か怪しい感じや、一撃必殺!的な感じ、などなど。
しかし、英語で「裏コード」は【tritone substitution 】もしくは【substitution dominant chord】で、何かがっかりするような…。



楽器を演奏もしくは歌を歌う際に重要なのは『楽曲に対し自分がどの様にイメージ出来るか?』
そしてイメージを頭の中で映像・言葉・絵などに置き換え明確にし、
更に音や声によって具体的に聴く者に提示し届けられるかどうかだと考えている。





【参考資料】
プログレッシブ和英中辞典(小学館)

7/04/2010

ピジン英語からリズムを考える






黒人音楽の特徴と言えば、「シンコペーション」や「オフ・ビート」などの特徴的なリズムパターンを思い浮かべるかと思いますが、
では『何故?この様な特徴的な事が発生したか?』(西洋音楽、白人音楽では何故あまりみられないか?)と云うテーマを今回は探っていければと思います。

心臓の鼓動、呼吸、歩行等による人間の生活活動における基本的なリズムが存在しているが、この様な事柄をある特定の生活環境(同じ文化、風土)でも似通った生活リズムが存在すると仮定すると、それを背景とする【言語】や【音楽】等においても似通った音楽形態があるのでは?
ブルースやジャズがアフリカ音楽と西洋音楽の衝突から生まれたものであるが、
【言語】においてはどうであろうか?


周知ではあるがアフリカから奴隷としてアメリカ大陸に連れてこられた黒人達であるが、ここでコミニケーション(命令)として奴隷貿易をしていた商人と奴隷達の間で共通に使われていた「言語」は現在のような英語ではない事。
そして、奴隷達が団結し暴動・反乱を防ぐ為、「言語が違う異なった部族」を連れてきた点に留意したい。
商人が使っていた英語、異なった言語を使っていた奴隷達のアフリカ地域の言語の衝突により発生した【ピジン英語】を母国語として【プランテーション・クレオール言語】を経て【黒人英語】の誕生が特徴的リズムにどれだけ影響を与えたかを考えてみたい。



ピジン英語とは英語をベースとし経済的時間を簡略した最低限度の英語文法を持った英語である。
英語(白人英語)は「強勢拍言語」と呼ばれ、音韻脚と呼ばれる強勢のある節と弱音節の組み合わせからなる言語に対し、
アフリカ言語(ここでは奴隷貿易が最も盛んであった基地局:マンディンカ、ナイジェ・ゴンゴ族を例として)は「音調言語」と呼ばれるものが殆どで、音節内の母音のピッチの変化により言葉の意味を区別し、音節単位(音節拍)によりリズムが構成されている言語である。(フランス語、中国語なども音節拍リズムによる言語である)


英語では動詞、名詞、形容詞が(文意を明らかにしている部分)強勢音節となり、文法的機能を持つ助動詞、代名詞などは強勢を持たず弱勢音節となる。
更に、文章の意味を決定するのにアクセントの位置によって大きく変化しており、1つの発話単位の中では第1アクセント、第2アクセントに強調表現が置かれている。
しかしこのような概念は持たない「音調言語」は英語と比べるとかなりリズミカルに聞こえ、更にピッチの変化が激しいのでメロディカルにも聞こえる。
音調言語を持つ彼らが強勢拍言語(白人英語)をベースとしたピジン語を使うとどうなるか?は想像に容易く、要するにリズム単位やイントネーションは言語習得時に完成され、それを違う枠に押し込んだものがピジン語であり更にそれが発展し現在の黒人英語と考えて貰えれば。


この様に考えてみると、メロディーは言語リズムに大きく(制約)左右されており、言語リズムは言語(歌詞)の明瞭化に大きく影響を及ぼし、アクセントの移動は言語(歌詞)の不明瞭化を犯しかねない。
しかし、黒人英語は英語とは異なったアクセント構造を持つ為、アクセントの移動による強調表現を取らず、文章の構造そのものを変化させるという手段を選択している。
(この辺りはシンコペーションという概念を発想しやすいと思う)

しかし、アクセントの移動は言語(歌詞)の不明瞭化を犯す点では勿論、不明瞭化を犯しかねないが彼らの言語は音節内の母音のピッチの変化により言葉の意味を区別しており、基本的には発音そのもの自体が不明瞭なので白人英語と比べると自由度が高く感じられ、抑揚の効いた感じに聞き取れる。
黒人音楽におけるよく見られる「シャウト・唸り声」は歌詞の持つメッセージ性より、最早楽器同様に扱う要素が大きくなっている点も頷ける。


細かい文法的な事例を省略してざっとであるが、黒人英語・言語が彼らの音楽的特徴に結びついた点を考えてみましたが…。
恐らく、各個人が持っている「日常生活レベルの言語リズム」がその人個人のリズムなのでは?と思いますがどうでしょうか??


6/27/2010

パスティーシュ(Pastiche)


パスティーシュ(Pastiche)

尊敬する音楽家の作品に影響を受け、その音楽家と同じような作品を創作する事を
「オマージュ」なんて言葉がありますが、「パスティーシュ」はどうであろうか?

基本的には尊敬する音楽家への敬意がある事を前提と考えたい。「パスティーシュ」
という言葉から連想する音楽家と言えば…恐らく「大滝詠一」氏を思い浮かべるのでは?

では彼の楽曲を基に少し聞き比べを。曲はCM等で聞き覚えのある1981年の

【大滝詠一/君は天然色】



まずは1曲目
【Gary Lewis & the Playboys / Everybody Loves a Clown】
初期beach boysを感じさせる良質なPOPS、と言った作風。 どうでしょうか?

では2曲目
【Pixies Three /Cold, Cold Winter】
どちらかと言うとこのグル-プに似ていると言うより、
「Wall Of Sound」フィル・スペクターへの愛着を感じさせます。

では最後の曲
【Wizzard (Roy Wood) / See My Baby Jive】
ELO等の活動で知られるRoy Woodのバンド。いや~曲はさて置き、
ショッキングな映像です(笑)ファントム・オブ・パラダイス!!


いかかがでしたでしょうか?結局は音源を聴いた人次第なのでしょうかね?
大滝さん!本当はもっと違う曲の「あの部分」も…??



6/07/2010

裏インター・プレイ



今回は先月更新したinterplayでの「宗教と音楽」について「キリスト教」テキストとして少し考えてみた。
因みに最初に断っておくが私はある特定の信仰はなく「単純に音楽と云うものを史観的に遡り様々な角度
から現在までどの様に発展・進化していったか?」を目的としている事を述べておきたい。


先ず「宗教と音楽がどの様に結びついたか?」を考えにあたり、
「キリスト教音楽の起源」から…と調べてみたものの実は、何処で、何時頃、どの様に発生したか?
殆ど何も判明していないそうです(9世紀辺りから具体的な音楽資料が出てくる程度!ちょっとビックリな感じしません?)
元々、キリスト教はユダヤ教の延長線上に発生した信仰なので、恐らくユダヤ教音楽をそのまま受けずいたと思われるので、
ユダヤ教音楽について探って行けば…とりあえず…初期キリスト教について(汗)


イエスが十字架にかけられ死後3日で復活し弟子たちに様々の事を伝え40日目に昇天し、更にその10日後弟子
たちの上に聖霊が降り、弟子たちは「異国の言葉で話す力」を与えられた。
そして弟子たちは各地で布教活動を行ったのがキリスト教の出発点であろう。
地方によって風習、言語、礼拝も異なっていたものの旧約聖書を唱えイエスの言葉を伝承しつつ神を称える
点では共通していたと思われます。


聖書の言葉を【口伝】と云う方法で伝えてた時代の為、ただ唱えるより【節(ふし)】をつけ人々の耳に残
るように、そしてその節に合わせその地方特有の旋律が付いてゆく。
更に「詩編や賛美」などは声を挙げて歌うようになって行く…もしくは単純な節のみで…時にはユダヤやア
ラブ文化の影響を受け装飾的にな旋律で…恐らくこんな具合で【聖歌】が誕生したのでは?と考えられている。



ここで注目したいのは【楽器を用いた事】と【楽器を用いる事を禁止した事】という記述された資料が発見されていない事、しかし「ヨハネ黙示録」の中で【キタラ】と言う楽器で伴奏されたと思われる記述もある。

しかし中には楽器の伴奏を禁止した例もあり、東方教会では今日に至るまで聖歌は無伴奏で歌われており、中近東やスラブ地方の教会等でもその名残を受け継いでいる所も有るようです。(個人的にはパイプ・オルガン等の伴奏が付くもの、と思っていました)

角度を少し変え当時の時代背景はローマ帝国:皇帝ネロの時代であり周知の通りキリスト教は弾圧・迫害を受けていたが、しかし、コンスタンティヌス1世が帝位に付くと状況は一変し、帝国公認の信仰となりやがては帝国内唯一の国家宗教と定められローマ帝国がオスマントルコ帝国に滅ぼされ迄続きキリスト教音楽は更に発展・進化してゆく。

その裏側には絶大的国家権力の後ろ盾があり、政治力、軍事力と同一に扱われる程メンタル的な力を必要とされていた事を忘れてはならない。




この様にしてヨーロッパ全土に典礼や聖歌が各地各様に発展・進化して行く訳であり、布教と言う面では目的が達成されて行くのだが、その後それを統一した物(ローマ教皇公認の)典礼・聖歌を定めようという動きが出てくるのであった。

その為には聖歌を歌う為の「訓練」が必要となりその「教育機関」が確立されていくと共に、多くの理論書、典礼書そして聖歌集が筆写され、旋律を書き留める【ネウマ譜】と呼ばれる【楽譜】が登場してくる。

しかしながら、やはり地方によってバラつきがあった様で今日のような「五線譜や音階」など様に共通な物が登場するのは、ずっーと、ずっーと後になるようで…。



2つ目に「芸術作品が宗教に与える影響とは人間の五感を総動員しての" 演出効果 "なのかも知れない」点について。

まず、【トロープス】と呼ばれる手法の登場によって演出効果上がったと言っても過言ではない。「トロープス」とは当時存在した聖歌の旋律に「新しい歌詞を書き加えたり」、「1部の旋律を繰り返して、より長い歌詞を付けたり」更には「新しい旋律を新しい歌詞付きで書き加えたり」という手法である。

主を賛美するにあたり、そのままの聖歌ではなく「心を込めて何か手加える」と言ったメンタリティーに因るものではなかったのではないだろうか?

そしてこの「トロープス」の重要性の例として、ミサの冒頭で歌われる「入祭唱」に付け加えられたトロープスである。ここでのトロープスは「そのミサがどの様な趣旨で、更にその内容を詳しく説明する」役割を担っていた。


例えば、イエスが誰に向かい、誰に呼びかけて、そして誰がイエスに答えている様な聖歌では、【対話調】な…要は【セリフ】的な使われ方をしていた。その後は舞台装置を用意する等、当初の「入祭唱」とは別な宗教的音楽劇【典礼劇】へと発展し、
一方では礼拝とは無関係な音楽劇が聖職者の手から職業的芸人へ、セリフも教会で使われていたラテン語から一般的に使われていた言語となり、舞台装置や衣装も大掛かりなものとなり大衆化されて行った。


ざっ、とであるが「宗教と音楽」の結びつきからその進化を書き連ねたのであるが、上記の文章はまだ入り口の辺りで この後、長い年月を経て現在の音楽に至る訳で。(十二等分平均律なていうものは、ずーーーーーーーっと後の話)

楽譜(記譜方法)やMP3レコーダー等無い時代、当時素晴らしい音楽を再現する為各々の人が知恵や工夫を凝らした…。
イメージ(妄想)を膨らませて音楽を楽しむのもまた楽しいもので。




【参考資料】
・キリスト教音楽の歴史(著:金沢正剛 日本キリスト教団出版局)

5/23/2010

色彩に満ちた美しい調べ


色彩に満ちた美しい調べ

音楽と産業技術の発展は非常に密接な関係がある事は周知ではあるが、
他のリベラル・アートにおいては…例えば【絵画】などはどうであろうか?

絵画とは支持体(キャンバス:紙、布、板、壁等)に描画材料(絵具等)を描画
する事によって成立する。1840年に発明された【チューブ入りの絵の具】の登場。
以前は「顔料や溶剤、助剤」を混ぜ調合して描画材料を画家個人が作っており、
優れた画家の要因の1つに「優れた描画材料を作る事が出来る」と云う事が排除さ
れ、誰でも同じような色を使い絵が描ける点は画期的なものであった。

そしてもう1つ、1820年代に発明された【写真機】の登場により肖像画家達が
次第に職を失うようになった。写真機の登場により被写体を正確に模写する
写実的な技術(写実主義)を持つ画家達の画家としてのステータースが崩壊
したことにより、画家達は「絵画は写実的である」という事から開放され
新しい作風を試みた。そう【印象派】と呼ばれるムーブメントだ。


印象派の特徴として平面構成における自由な空間表現として【主題の強調】。
そして【鮮やかな色彩感】は画材道具の運搬の簡素化(チューブ入りの絵の具)
により画家達がアトリエを出て「野外」にて作品に取り込む結果、「光の変化」
「物質の持つ質感」を色彩表現したものであろう。


BILL EVANS trio「EXPLORATIONS]
(RIVERSIDE RLP-9351)


マイルス・デイヴィス・グループを脱退後、
ビル・エヴァンス立ち上げたトリオの2作目のアルバム。

エヴァンスの演奏についてよくクラシックのドビュッシー、ラベルと云った
フランス近現代の作曲家の影響を受けた話しがよく聞かれますが、機能和音による
手法とは違った「教会旋律や全音音階」などを用いたアプローチに因る点、そして
曲が抽象的になり過ぎず、かつテーマを強調しすぎない点やメロディのアクセントの
変化(タッチの変化)をつけることにより曲に「色彩感」が浮かび揚がる点なども
挙げられるのではないでしょうか。

リズムセクションがエヴァンスのメロディに干渉する様に入り込み、
それをエヴァンスが受け、またリズムセクションが...と
3者3様に曲を進めていく点がこのトリオの魅力ではないでしょうか?


国内でのエヴァンスそして印象派の画家達の人気は、我々日本人が
四季折々の光の変化に因る色彩感、物質の質感を無意識下に肌で知っており、
そして印象派の画家・音楽家が当時の【ジャポニズム】の影響を受けた点や、
エヴァンスが日本の水墨画に通じている点などではないでしょうか?


text by 【 DJ 】


5/03/2010

ANYTHING GOES



世間はゴールデン・ウィークだ。
連休とは無縁の私だが...業種によっては4月末辺りからお休みの方も?
ところで、何の祝日でしたっけ??


1954年。当時日本は敗戦後からの独立・経済自立向け模索していた時期で、
国内需要の低下・物価の低落と言う不安要素抱えながら国際社会の仲間入りを目指していた。
そんな折、激しくなる東西冷戦の対立が海外輸出を好転をもたらし国際収支も黒字に転じ、
国内需要も好転の兆しがみていた。そう、朝鮮戦争特需である。
また「三種の神器」と呼ばれる【電気冷蔵庫,洗濯機,テレビ】に庶民は憧れていた時期でもあった、
その2月に日本にアメリカを代表する有名スターが2人来日していた。


【ジョー・ディマジオ】と【マリリン・モンロー】が新婚旅行で来日していたのだ




ジョー・ディマジオは読売巨人軍の野球指導の為1人で出か掛けたが、
野球には興味がないマリリンは1人ホテルで過ごしていたそうです。
(ちなみに来日会見で、「寝る時は、何を着て寝ますか?」と云う質問に
「シャネル5番だけ」と云う有名な回答が出たのはこの時だったそうです)

そんな暇を持て余していたマリリンにアメリカ極東指令本部より連絡が入った。
内容は朝鮮半島で停戦中のアメリカ駐留軍の慰問だ。
ジョー・ディマジオは強く反対したが...
結局2/16~19日の4日間マリリンは朝鮮半島に駐留するアメリカ軍兵のもとへ慰問として各地を回った。


◆6148th Tactical Control Squadron "Mosquito"

この“MOSQUITO”部隊の任務は敵の地上施設や移動する敵軍を見つけだし、目標物を発見すると確実に攻撃出来るように発煙弾を投下し、上空を旋回している戦闘爆撃機に地上部隊を通して無線連絡することであった。“MOSQUITO”の呼び名は文字通り“蚊”のごとくいつ何処から現れるか予測がつかない為につけられたもので、北朝鮮軍には忌み嫌われ恐れられていた。





大規模な軍隊を朝鮮半島に派遣したアメリカ軍は数多くの歌手・コメディアン・俳優を慰問団として派遣し数多くの公演を行った。
そしてマリリンもその一人であった。

マリリンが「K-47」と呼ばれた「チュンチョン」を訪れた時、上記部隊の興奮した兵士からフライト・ジャケットを手渡され羽織ってみせた。
感激と興奮に覚め止まぬ兵士たちはこの思い出を記念として、自分のフライト・ジャケットに「日付とショーのタイトル」をパッチや刺繍したと言われてる。


因みにショーのタイトルは【anything goes (何でもあり)】





国家権力主導の音楽による慰安。
また、第二次世界大戦中兵士の士気を挙げる為の「V-disc」(V-discとは、1942年末~49年末までにアメリカ政府が製造した30cmのSPレコード。戦地へはパラシュートで蓄音器と一緒に落し、戦場の兵士の士気の高揚・レクリエーションを目的としたもの)。
戦場の兵士の「心を慰める」点は頷ける半面、兵士を戦場に送り出したのも国家である。

核縮小、有事おける沖縄核密約文書の発覚、日本国内おける基地移転問題...様々な問題が問われているが、我々は「身の回りにある」歴史の負の遺産からまず過去を知る事が出来る事を忘れてはならない。


4/25/2010

Une sensation

Une sensation

曲名:April in Paris
アルバム:Charlie Parker with Strings
: The Master Takes

パリ。
歴史と文化、そして自由に溢れる街が春の到来を祝う「復活祭」で賑わい、
多くのマロニエの緑によって包まれるこの季節が一番美しいそうです。
パリの道(通り)には全て名前がついており、並木のある大通り(Avenue:アヴニュー)
そして細い路地で車の通れない石畳の道(Passage:パッサージュ、Allee :アレ)等
と呼び名が違う点など自然との調和がとれて美しい街と云われるのにも納得出来ます。

そんな美しい街並みを歌った曲" April in Paris "。
エラ・フィッツジェラルドとルイ・アームストロングが唄っているものが有名ですが、
今回はプロデューサー:ノーマン・グランツによるアルト・サックス奏者:
チャーリー・パーカーとストリングスのセッション。

パーカーとの融合により一見地味なストリングスが豊かなハーモニーとメロディが浮き上がり、
パーカーのスピード感溢れるスリリングなアドリブをより一層引き立てている点は
恐らくノーマン・グランツが演奏者の力量を見抜いた故のアイデアだったと思います。


ジャズが他の音楽と明らかに違う要素として「即興性(アドリブ)」が挙げられる。
「be-bop」以前の音楽は作曲者の意図を細かく譜面に記譜することにより
演奏者に指示していたのに対し、「be-bop」はそれらの譜面を「コード・ネーム」
と云う記号化・簡略化することにより、演奏者の解釈によって解体・再構築する事が
出来るようになり、より自由度の高い演奏が可能となった。

更に史観的に背景を考えるとアメリカは第二次世界大戦中であり、徴兵を断った(逃げた?)
黒人ミュージシャン達がストリート、アンダー・グランドより発生した点も非常に興味深いです。

その後のモダン・ジャズの発展を予感させるパーカーの演奏、
新しい季節の始まりの「予感」を感じながら聴いて頂きたい1曲です。

4/05/2010

桜の季節によせて




最近、歌の伴奏や、セッションなどにお声を掛けて貰う事が多い。
自分では「声を掛けて貰うほどの演奏ではないのだが...」と思うが。


バンドを組んだり、楽器を演奏したことがある人なら知っていると思うが、曲を演奏するにあたりちょっと
した「決め事」がある。この「決め事」がないと各楽器の演奏者の自由気ままにより基の曲とかけ離れたも
のになってしまう恐れがある。(勿論、基の曲とかけ離れたものが好いと云う人もいるが)
それを紙に書き起こしたものが「譜面」だ。




譜面が読めない人もいるかもしれないが、上記のような譜面を見たことがあるのではないかと思います。
五線譜にメロディ(レ、♭ミ、ミ、ファー ...)があり、五線譜の左上にコード(B♭7、E♭7、B
♭7)、そして曲のテンポの速さ(4beat ♪=90)が記譜されている。
簡単に説明すると「指定されたテンポで、指定されたメロディ(指定された高さの音を指定された音符の長
さで)を奏で、指定されたコード(和声)を曲中の指定された部分で鳴らすと、こういう曲が【再生】でき
ます」。要するに譜面に書かれた内容に従って演奏すれば、「何時、何処でも、誰でも基の曲が【再生】可
能です」と。
レコードプレイヤーの再生技術が発達・発展前は1曲ごとに楽譜を印刷・出版・販売し、それを基に演奏し歌
う事により再生された音楽を「シート・ミュージック」と呼ばれており、楽譜の内容はは「3段の五線譜」に
より、唄のパート、ピアノのパート(ピアノ譜は2段)となっていた。
(実はこれ19世紀終わりから20世紀初頭頃の話で、結構遠い話しではなく自分からみて3世代前の話で、もし
かしたら読者のお爺さんとか見ているかもしれないですから)



ポピュラー・ミュージックにおいて特にピアノ・パートをコード・シンボル【記号化】したことは、かなり画期的な事でアンサンブルにおいて最低限の「決め事」を守っていれば、演奏者の独自の解釈により演奏がより自由になった。
曲を1度、旋律とコード進行を記号化することで分離して各々プレイヤーが音楽的要素を把握し解体・再構築を即時即決しながら演奏を進めていく。この様な発想が如実に現れたのが「Be-bop」ではないでしょうか?
しかし、近年ではこの記号化された物を操る事がイコール「アレンジ」と云う考えが蔓延し、記号を複雑化
し情報を詰め込むイコール良いアレンジなどと。その反動か音楽を「音響」によって聴く傾向も多く見受け
られ、良い悪いとは別で我々はその様な複雑化した情報に対し疲れ果てているのかも知れない。


ザッとではあるが、現在当たり前の様に扱われ当たり前の様に記譜している譜面も時間を経て現在に至って
いること、無論、音楽を記譜するまでにも長い時間を経てきた事も忘れてはならないし、また現在に至って
は既にこの様な事の役割を終え譜面が「数値化」されている事も見逃せない点、更にアンサンブルにおいて
大前提となる調律(チューニング)の意味なども個々に探ってもらえれば幸いで。




人と何かをやる時、結構面倒くさかったり、手間が掛かりイラッ!したり、自分が描いていた事と違ったりする事がなどと多かったりすると同時に、予想以上に楽しかったり、意外と手間が掛からず簡単に出来たり、などということも多かったりしますが、実はこれ一番重要な事だと思います。

音楽だけでなく、仕事やスポーツ等の団体競技などにも共通すると事だと思いますが、
ある事柄に対し理解・把握した自立した人が集まり、力を合わせて何か行動を起こすと、
出て来た結果に説得力のような厚みのあるような「何か得体の知れない力」が必ず出てくる。


我がブログも気が付けば2年目に突入し、読者を含め関係者の皆様のお力添えの賜物です。
4月という新年度で更なる人との出会いが皆様にとって「何か得体の知れない力」が出せるように...。










【参考資料】
・スタンダード・ジャズ・ハンドブック / 伊藤伸吾・編(中央アート出版)
・図解雑学 構造主義 / 小野功生・監修(ナツメ社)

3/28/2010

ボブ・ワインストックという男

ボブ・ワインストックという男



1949年。
ニューヨーク西47丁目のレコード店「ジャズ・レコード・コーナー」のオーナー、
ボブ・ワインストック。彼はいつの日からかレコードを「売る」ことより「製作」
する事に意欲が高まり、遂にはレコード会社を設立する。そう、jazzファンなら
誰でも知っているレーベル「Prestige」です。

彼はある日クラブであるピアニストを紹介され、ピアニストは彼にこう言った、
「もしレコード会社を設立するなら、jazz greatを連れて録音に行くよ」と。

1952年。
その願いが叶い、録音されたアルバム【THELONIOUS MONK TRIO(1954) PRESTIGE 7027】です。
当初録音されたのは10inch(Prestige 142)でしたが1954年に12inch LP化の際、
追加録音されたのが「just a gigolo」です。


彼は当時の事をこう振り返って言っております。
「夢のようだった…小僧だった私がjazz界で彼らと兄弟の様に受け入れてくれたんだ!」
因みに彼のレコード店の向かい側にあったjazz club:ロイアル・ルーストでは彼は
顔パスで出入り出来たそうです。もともとトラディショナルなジャズが好きであった彼が
モダン・ジャズに熱中していったのもこのような要因があったからではないでしょうか。
また自由奔放な性格の彼は、ブルーノート・レコードのアルフレッド・ライオン
とよく比較されたそうですが、どちらも後世に語り継がれるアルバム・ジャズメン
達を育てたという点は大いに評価できるのではないでしょうか?

その後レーベルは1972年にファンタジーグループ(コンコード・ジャズ・グループ)
に吸収され現在も存続し60歳を過ぎ、またレーベルの創立者のボブ・ワインストックが
この世を去って5年が過ぎました。

「just a gigolo」にはもともと歌詞があり、曲中でこう歌っております。

「As life goes on without me.」

去り行く季節に少しちょと心に沁みる1曲です。

3/07/2010

神田川




先日街の不動屋さんのアパートの物件を眺めていた。

幅広い家賃、様々な間取り...沢山の物件のセールスポイントを見てみると、
「インターネット使い放題、ペット可、全室オートロック女性も安心、夜の仕事の方OK」等と
今の時代ならではの入居者のニーズに合わせた物件が目に付く中、こんな物件があった。



『風呂無し、近隣に銭湯あり』




銭湯の歴史は鎌倉時代から始まり、現在の湯に浸かる「湯槽式入浴」は江戸時代から始まったと言われます。江戸時代、家に風呂(内風呂)がある家は身分の高い者にしか認められず、一般庶民は銭湯(湯屋:ゆうや)を利用していたそうです。
また、木造の長屋が多く火事の多い江戸では庶民が内風呂を持つ事が禁止されていたようです。

ところで、皆さんは「銭湯」に行ったことがありますでしょうか?
近年「健康ランド、スーパー銭湯」なるものが東京郊外等に見受けられますが、
「街中の、自分の家の近隣の銭湯」に行った事があるでしょうか?

現在、東京都にある銭湯の数は「829店(東京都公衆浴場業生活衛生同業組合に加盟していると思われる銭湯)」あるようで、昭和40年代頃までは銭湯も多く開業されていましたがそれ以降は各家庭に内風呂が設置されたり、ニュータウン等の地域開発に伴い総合住宅(団地など)の建築ブーム等により人々の生活様式、生活時間などの変化により減少していった為、自宅に風呂がある人は殆ど銭湯には行ったことがないのでは?

因みに私は小学校1年の時両親の都合により、区内下町の母親方の実家で暮らしていた時によく銭湯に行きました。自宅に風呂は有りましたが、同級生の友達の半分位は家に風呂がない子が殆どで、その友達と銭湯に行った思い出があります。

中でも一番覚えているのが、、、
いつも風呂上りに友達と脱衣所や縁側で「アイス(棒状)」を食べていたのですが、その日はどうしても先にアイスを食べたくて...しかし風呂にも入らなくては...ということで友達皆で「風呂に入りながら、アイスを食べる」ことにしました。
湯船に浸かり、仲の好い友達とアイスを食べる...小学生の私には最高のひと時でしたが、次の瞬間見知らぬ爺さんに怒鳴られる!という始末...(当たり前だが)。

数日後、学校から帰るといつもは優しい祖父にいきなり怒鳴りつけられました。そう上記の銭湯のことで。要するに銭湯で怒鳴られた爺さんと祖父は地域の消防団員で顔見知りで、私の事を知っていたのだ。銭湯はただ体を清潔にする所だけではなく、

【その地域に根ざしたコミニケーションの場所】でもあったのだ。





昭和48年(1973年)9月。
あるフォーク・グループのアルバムに収録された曲を、深夜ラジオ番組で放送したところ
数多くのリスナーからの問い合わせ・リクエストが寄せられ、それを機にシングル・カットされた曲。
南こうせつ率いる「かぐや姫」の代表作と云っても過言でもない作品、『神田川』。


南氏が作曲を手掛け、作詞を当時ラジオ局の放送作家の喜多条 忠に依頼した。
歌詞は、70年代当時の若者の同棲生活を送っていた男女間を喜多条氏の実体験に基ずく苦い思い出を切なく綴った内容で、歌詞の中で銭湯がガジェットとして使われている。
時代が移り行く時期に、古き良き時代の象徴としての銭湯。
また何気ない普段の生活描写を切り抜き、男女間の気持ちの揺れを一個人の目線で描き、当時若者の意見の代弁者であるフォーク・グループが丁寧に歌う、と言った事が当時の若者達の支持を得たと思います。



現在、減少傾向にある「銭湯」ですが、近年では銭湯の建築様式がレトロ・ブームとして注目が集まったり、
浴室正面に描かれた「ペンキ絵」や「タイル絵」にも注目が集まり、違う価値観で銭湯を見直す動きがあるようです。

また、定休日に「外国人向けに風呂の入り方をレクチャー」したり、
浴室の残響(エコー)を利用した「アコースティック・ライブ」なども行われ、
銭湯を利用したことが無い海外の人や若い世代にも理解を得ようと云う活動もされている銭湯もあるとか。




一雨ごとに春の訪れを感じるこの季節。
と言っても、まだ肌寒い日が多い。

こんな夜は熱い風呂に浸かるのも好いかと。







【参考資料】

・東京都公衆浴場業生活衛生同業組合 web (http://1010.or.jp/index.php)

3/06/2010

" These Foolish Things "



作詞/作曲:Harry Link Holt Marvell
唄:Bryan Ferry アルバム:"These Foolish Things(1973)"より




彼女の名前は Anna May Wong (中国名:黄柳霜)は 女優としてハリウッドで初めて有名になった
アジア人で、エキゾチックな美貌で「チャイニーズ・ヴァンプ」等と呼ばれ人気を博していました。
しかし輝かしい成功の裏側には差別の苦悩との闘いの日々。与えられる役柄も限られ、しかも
ヘイズ・コードと呼ばれる異人種間の恋愛描写を禁止する法律までもあったとか...。

心機一転、ヨーロッパやブロードウェイに進出した彼女は実力を付け、
経験を積み再びハリウッドに戻りますが、やはり以前と変わらぬ扱い....
しかし、中国系アメリカ人の家庭を舞台としたミュージカル映画(Flower Drum Song)の
出演をきっかけに彼女に運気がまわって来たと思われたが...。


そんな彼女を陰で支えていたこの曲の作詞家:
Holt Marvellのペンネームを持つ『Albert Eric Maschwitz』。
一説には彼女への断ち難い思いを綴ったものでは?と言われています。


「口紅の付いているタバコの吸い殻、
 ロマンチックな観光地への航空券
 いまでも心臓がドキドキしてくる
馬鹿みたいなことで君を思い出す
 ~中略~
 3月の風が吹くと心が躍り出して電話を掛けたけれど、誰が出る?」



終わった恋に振り返る男。
しかし、女は振り返ることはない。なぜなら…


結局彼女はミュージカル映画出演後、心臓発作によりこの世を去ってしまいます 。
生涯彼女は独身でいたその訳は...。


" These Foolish Things "

数少ない英国産のジャズ・スタンダード・ナンバーの曲を英国の伊達男ブライアン・フェリーが切なく、
けれど何処かコミカルにアプローチし、またニューロマンティックな彼が歌っている点も興味深いです。

2/07/2010

ラヂオスターの悲劇



1981年8月1日 アメリカ。
若者向けに24時間ミュージック・ビデオクリップ流し続ける放送番組「MTV」がスタートした。
オンエアー第1曲目に選ばれたのが、ジェフ・ダウンズ、トレヴァー・ホーンにより結成されたグループ
「The Buggles 」の「Video Killed The Radio Star」だった。



歌詞の内容は時代の変化・ハードウエアの進化により衰退を余儀なくされたラジオスターをオマージュする内容をエレクトリック・ポップに仕上げた曲。(数年前にテレビCFにも使用され若い世代にも馴染のある曲では?)

グループの活動停止後、ジェフ・ダウンズはロックバンド「AISA」へ加入し、トレヴァー・ホーンは「Art of Noise」等を抱えたレベール「ZTT」のプロデューサーとして活動を始め、1983年に再結成したプログレッシヴ・ロックバンド「YES」の「ロンリー・ハート」は彼の名前を一躍有名にしたのは言うまでも無い。

(ハードウエアの進化については interplayⅢ:ラヂオ・デイズ[ラヂオの夜明け]を参照・御楽しみ下さい)



ビデオ・デッキの普及はラヂオスターだけでなく、『もう1人』衰退に追いやった。



ニュージャージー州カムデンで工場を経営する「リチャード・ホリングスヘッド・ジュニア」は自動車と映画をこよなく愛する人であった。
彼は日々「車に乗りながら、映画を観る事が出来ないものか...」と考え、或る物を発明した。




そう『もう1人』は...【ドライブインシアター】だ。



ドライブインシアターとは巨大な駐車場にスクリーンを配置し、車に乗ったまま映画が鑑賞できる映画上映施設であり、
駐車場に巨大なスクリーンが設置されており観客の乗った自動車は駐車場内の白線に停まりスクリーンに上映される映画を鑑賞する。
音声は自動車内にあるラジオで受信する方法・駐車場にあるポールから音声を引く場合もある。

ドライブインシアターは1950年末~60年初頭にブームのピークを迎える。
人気の理由は「安心して家族全員で映画を観にいくことができるという事」でリチャード・ホリングスヘッド・ジュニアは開業時に「どんなに子供が騒がしくても気にせず家族みんなでお越しいただけます」と宣伝していたそうだ。
また、家族連れだけでなく若いカップルのデートスポットになっていた事も付け加えたい。

しかし、70年代以降は天候や時間帯(夜間のみ)、広大な敷地の確保及びコストの高さ等の収益性に問題が発生。
更に収益確保によるポルノ映画上映、さらに自動車という密室と云う空間でのモラル。そして先にも挙げたビデオの普及....などの理由で衰退の一途を進む。
日本でも80年代に入り郊外などに普及したが、現在では神奈川県大磯市にある大磯プリンスホテル第一駐車場を使用した
「ドライブインシアター大磯」が日本唯一のドライブインシアターとなってしまった。

モータリゼーション発達は自動車産業の発達だけでなく、公共事業や流通事業等の変動による景気の上昇といった経済上の変化も発生させた。更に都市部だけでなく地方や過疎地の生活も変化させ人口の流入・流出も加速させた。
ドライブインシアターもその中の1つで経済上の変化をもたらし、新しいライフスタイル・娯楽の提案と言った所であろうか。
また、70~80年代初頭にドライブインシアターで上映されていた所謂「B級映画」の温床になっておりB級映画ムーブメントに深く関係していた事も付け加えたい。



さて、勘の鋭い読者の方々は気が付いていると思うが、
こんな強い影響力持ったビデオ・デッキは「誰に」よって衰退の道を進んだのか?

「CD?DVD?それともBlueray?」
なかなかいい線いっているが、ちょっと違うね。




それは今、貴方が覗いている、その画面では?







【参考資料】
・ドライブインシアター大磯 web(http://kurumadeeiga.com/)

1/10/2010

美しき天然



正月の雰囲気が少しずつ消え、また何時もの生活感を取り戻しつつある中【成人の日】と言う祝日だ。


思い起こせば「成人式」などは遥か彼方の昔に思える。
同級生の女の子達は皆振袖姿で、久しぶりに会った為か何処か男の子より皆少し「大人」に見えたと言うか、「大人」に近づいている...そんな事をおぼろげに覚えている。そして男性は殆ど「スーツ」姿であった。
が、自分は「黒と赤の英国製のスクールジャケット」に「黒の細身のパンツ、そしてベレー帽に水玉模様のスカーフ」を巻いて出席した(今考えると「トニー谷」みたいだなぁ)




因みに母親はそんな私を見て一言、

「お前はサンドウィッチマンか?...」。
そんな成人式でした(笑)






「サンドウィッチマン」と云ってもお笑いコンビの人たちではなく、
繁華街の路上に立って胴と背中に広告看板を付けたり
大きな看板を持ち派手な衣装で、街行く人々の目を引く
「広告宣伝屋さん」のことである。



現在でも繁華街などで見られるが、
私の幼少の頃よく目撃したサンドウィッチマンさん達は皆何故か「チャップリン」の様な格好をしていた。
日本では昭和20年頃から繁華街に見受けられ始めたと云われているが、恐らく第二次世界大戦後、負傷して職が無い復員兵達を低賃金で雇ったのでないかと思われる。(資料を調べると戦前からあったそうです)





「街の広告宣伝屋さん」と言えばもう一つの職業を思い浮ぶのが...そう、「チンドン屋さん」である。




「街頭広告宣伝」と言う点ではサンドウィッチマンさん達と同じであるが、明らか違う点は①「締太鼓と鉦(当たり鉦)を組み合わせたチンドン太鼓等の演奏、諸芸に通ずる」点と、②「チンドン太鼓、ゴロス(大太鼓)、楽士(クラリネット等でメロディを奏でる)、旗持(ビラ等を配る)の複数の人で編成されてる」点が挙げられる。

チンドン屋さんの歴史については諸説あり、江戸中期より「飴売」、薬を売る目的で市中を宣伝して歩きまわる「薬屋(今で言う薬局)」があるが詳しい事は不明で、「東西屋」の祖と言われる「飴勝」と云う法善寺を拠点として活動していた飴売が竹製の鳴物・拍子木を用い見事な口上から寄席の宣伝を請け負うようになった。というのが始まりではないかと言われている。

また、「大道芸」の「紅かん」という人物が両手に三味線、腰に小さな太鼓をくくりつけ、撥で三味線と太鼓を演奏し街を歩き回ったのが、現在のチンドン屋さんの演奏原型となったと云われており、その後はお囃子・楽隊など編成したり、映画のトーキーの登場により職を失った楽士や、また映画館の普及により芝居小屋(芝居の一座)の公演の縮小による人員の流入、ジンタの衰退による吹奏楽器の演奏家の加入を経て現在のスタイルが確立されたと言われる。

彼らが演奏するレパートリーはその時代の流行歌、現在では歌謡曲が殆どで誰にも馴染みある曲を選曲していると思います。田中穂積 作曲による「天然の美(美しき天然)」、どこか物悲しいく悲哀に満ちたメロディーは聴けば誰でも知っておりチンドン屋さんを象徴する1曲ではないでしょうか?

近年、音楽界でもチンドンのスタイルを基に様々なアプローチを試みるアーティストや、チンドン屋再評価の動きも見受けられます。これを機に街中でも更にチンドン屋さんを見られればなぁと。



2010年1月1日現在の20歳の人口は約127万人(男性約65万人、女性約62万人)で総人口に占める割合は1%。全員が平成になってから生まれた人で構成される世代である。


「昭和」がクラリネットのメロディと共に夕暮れの街に消えていく...。





【参考資料】

『チンドン屋始末記』 堀江誠二 著・二十一世紀図書館
『笑う門にはチンドン屋』 安達ひでや 著・石風社
『ノイズ』 11号 ミュージック・マガジン増刊 1991
『ものしり事典 風俗篇』 日置昌一 著・河出書房


12/06/2009

今年出合った音源



気が付いたらもう12月。
皆さんにとって今年はどんな年だったでしょうか?
今回は【私が今年出合った音源(アナログ、CD)ベスト3】を紹介したいと思います。



では最初の1枚目は....

・【 HUGO DIAZ / ANTOLOGIA Vol,1(1952-53) Acqua Records AQ-235 】

ハーモニカでタンゴやフォルクローレを演奏するミュージシャン【ウーゴ・ディアス】。
幼少期に交通事故に遭い視力を失い、視力回復の為の闘病生活時期に両親から買い与えられたハーモニカに興味を持つ。病状が回復後音楽家へと歩んでゆく。
当初はベーシストとしてプロ音楽家として活動していたが、1950年に彼をリーダーとしたバンド「ウーゴ・ディアスとチャンゴス」を結成し、同時に本格的にハーモニカ奏者として活動を始める。

ハーモニカと云う楽器の音楽家とは一見物珍しい感じもしますが、アルゼンチンでは多くのハーモニカ演奏者がいます。バンドネオンの演奏者:Astor Piazzollaも最初に買い与えられた楽器もハーモニカだったそうです。ハーモニカと云う楽器は鉄で出来たリードを吹いたり、吸うことによりリードを振動させ音を出すリード楽器で、何処か物悲しいマイナー調のメロディにリード楽器特有の音色が心に染渡る素晴らしい1枚です。未だ購入していませんがVol,2も販売しており、Vol,1 2共に2枚組みです。




続く2枚目は...同じリード楽器:サックスフォン演奏者の1枚。

・【 SONNY ROLLINS TRIO in Stockholm in 1959 / DIW Records DIW-25008 】

皆様ご存知のソニー・ロリンズの1枚。1984年に発売されたこのアルバムですが何故か持っていませんでした...自分がネット販売による音源の購入はしていないせいでしょうかね?
1958年10月 CONTEMPORARY Records の【 Sonny Rollins And Contemporary Leaders (M-3564) 】を吹き込み後、彼はnewyorkのジャズ・シーンから突然消え去り3年間消息不明と言われていた時期にスウェーデンの国営放送局の番組に出演したテープからカッティングされたレコードです。
テーマの歌いまわし、メロディをフェイクしながらアドリブへと展開していく所など随所にアイデアが光り、渡欧前にblue noteに吹き込んだアルバム【 NEWK'S TIME (BLP-4001M) 】でのドラマー:フイリー・ジョー・ジョーンズとのDUO曲「The Surrey With The Fringe On Top」に劣らない、トリオならではの絶妙なバランス感が聴く者を惹きつける1枚です。

人目をはばかる様にヨーロッパへ渡り音楽家として再び自分を見つめ直し、更に音楽表現に磨きを掛け、後に再びnewyorkに戻り橋の下で練習を日々の最大日課として怠らなかった話はあまりにも有名だが、同時に彼は精神力を養っていたとも言えるのではないでしょうか?




そして最後はサックスフォンと同じ木管楽器:クラリネット奏者の1枚。

・【 PEE WEE RUSSELL QUARTET with MARSHALL BROWN / ASK ME NOW! impulse Records A-96S(MONOはAS)】

PEE WEE RUSSELのimpulse盤?と思う方もいらっしゃると思いますが....勿論、RiversideのJazz Archives series(12inch)、Contemporary Jazz series(10inch)、Commodore盤などに参加したアルバムも最高の内容ですが....上記のレーベルの方を優先して購入していた結果でしょうかね?多分....。

このアルバムは彼が62歳の1968年の吹き込み(だと思います)。
アルバム・タイトルからも解ると思いますが、モンク(2曲)、エリントン(1曲)コルトレーン(1曲)、オーネット・コールマン!(1曲)の曲に取り組んでいる姿勢にまず脱帽。クラリネットの楽器ならでは音色を生かしたメロディ、そして広いレンジ感とダイナミクス、奇異を狙った感じをさせないユニークな音選びのアプローチは流石である(幼少の頃彼は、和音(コード)やスケールの練習が嫌いだったそうだが....)。
Riverside盤やCommodore盤と比べると若干アルバムコンセプトが前に出てくる感は否めないが、いぶし銀の演奏が楽しめる1枚です。


                                ●●●●●●●●●


インタビューでソニー・ロリンズはこう語っていた

「もう少しで自分の音楽に手が届きそうだ...」


70歳を過ぎても今なお、常に歩みを止めず進むロリンズ。
60歳を過ぎ自分よりも下の若い世代の音楽に興味を持てる柔軟なPEE WEE RUSSEL。
自分も今年1つ歳を重ねたが、常にニュートラルな感覚を持ち自分の進む道を「寄り道」しながら歩んでいければ...その為には日々の努力が必要だ.....。



来年は何を重ねるのだろうか?


11/22/2009

Cue



Lonely Woman

Ornette Coleman ATLANTIC RECORD (ATLANTIC 1317)



1920年に施行された飲酒を禁止した法律「禁酒法」。

20年代のアメリカ。
所謂「ローリング・トゥエンティーズ」は 華々しい経済復興の時代でもあり、
人々は戦争からの 開放感と経済繁栄に酔いしれ「狂気と祝祭」「華やかさとけだるさ」
そして19世紀的な道徳を否定する「享楽的刹那的な価値観」。
アフリカをルーツとする音楽とヨーロッパをルーツとする音楽が衝突した「Jazz 」。

大量生産、大量消費の始まりは同時にマスカルチャーの誕生を意味し
「流行」という強迫概念が定着し現代生活の礎となり、
スコット・フィッツジェラルドは「芸術と過剰さ」の時代を総して
【ジャズ・エイジ】と呼ばれる様になりました。

現代社会の大量生産・大量消費のスピードは更に加速し、
市場経済が実質経済を追い越しかねない状況。

株価指数のように細かく刻むハイハットのリズム。
ユニゾンするテーマに生じる微妙な「ズレ」は
現代社会特有の閉塞感・矛盾やを連想させ、
その中で叫び続けるサックスフォン。

『LONELY WOMAN』とは、
『LONELY CROWD(孤独な群衆)』なのかもしれない。