10/11/2009

たかが一公演、されど一公演。 ( チケット入手ルート編 )




今でも、あるのだろうか。
当時、朝日・讀賣 両紙の朝刊、社会面下方には "各種イベント欄" があった。
ある日 そこに掲載される、小さな小さな告知記事。 例えば、こんな感じだ。

疾走するビート!伝説の貴公子、ついに日本上陸!
○○○○○○来日  ×月×日~×日  □□□ホール  △△△音楽事務所


…こんな告知記事が掲載された日の早朝。
乃木坂近くの某飲食店の前に、一台の白いバンが停まる。
早朝という時間帯も手伝って、その車の周囲には人影はない。

車から男性が降りてくる。その手には、B6程度の大きさの紙の束。
彼がおもむろに「コンサートに行かれる方…」と言うや否や、
彼を目掛けて駆け寄って来る何十人かの人、人。。。

…これが、某大手音楽事務所のコンサート整理券の配布方法だった。
確かこの整理券一枚で、プレイガイドで普通にチケットを買うよりも
断然よい席が20席分、確保出来た。





この一風変わった配布方法には、 更に独特の"お約束"が課せられていた。

① 配布人が口を開く迄は、車の周囲(100m位)に近づいてはならない。それまでは
  辺りの物陰に散って配布開始を待つこと(小競り合いや混乱を避ける為)
② 駆け寄った人たちは、速やかに列を作ること                          
③ その列は、先頭の人が彼から10mほど離れるように作ること    
      ○○○○○○○○○○○○・・・・・(10m)・・・・・● □
           行列                配布人/車

④ 整理券の配布が始まったら、列の先頭の人から順番に一人づつ進み出ること
⑤ 配布人の前に進み出たら、行列の人たちに聞かれないように小声で    
   「掲載された新聞名・アーティスト名・日付・叩き文句」を正確に言うこと


当時は上記の5点を無事クリアしなければ整理券は貰えなかった。
(「ダメ。も一回、列の後ろに廻って」と冷たく言われる人を何人見たことか…)

後に、配布場所が外苑東通り沿いの青山霊園の端に変更された。
冬の寒い時期 まだ真っ暗な中、墓碑の陰に隠れて配布を待つ人々。
その人々が配布開始の瞬間、わらわらと墓石の死角から走り出て来る構図は、
正にシュールそのものだった(…自分も、その中の一人ではあったが)。





好きなアーティストのライブ。 当然、良い席で存分に楽しみたい。
────しかし、当時の自分は まだ学生の身分だった。
・金欠→ダフ屋からは買えない   ・ツテ無し→スポンサー席は無理
・学校(高校だった)は休めない   ・親の目があるので徹夜は不可能
      ・そして極め付けの、上記の様な整理券配布方法…

…こんな制約があっては、到底一人では何も出来ない。
そこで、洋楽好きな友人同士で作戦会議を開き、次の2点を決めた。
" 行きたいライブのチケット取りには、皆に協力してもらう "
" その換わり、自分が行かないライブのチケットでも、手伝う "


友人の一人が、新聞配達のアルバイトを始めた。あとの皆で手分けして
コンサート情報が頻繁に流されるラジオやテレビをチェックし始めた。そして
「来日報道近し」の情報が入り次第、2人づつのチームを作り代わる代わる
乃木坂や青山霊園で連日徹夜をするために親の目を盗んで終電で家を抜け出した。
始発時刻にはそっと帰宅し、朝には学校に通った。そして帰宅後はずっと習い事の練習…
…当時をザッと振り返って書き出しただけだが、クラクラする程の忙しさだ。(これが『若さ』というものか)

今思うと こんなルーティーンでもどうにかこうにか頑張れていた原動力は
何でも遊びにして愉しむ性格と、悪友たちとのチームワークの賜物だったんじゃないかな、と思う。
それから チケット取りを通じて学校以外の洋楽好きな知人が増えていく事も楽しみの一つだった。

その後 上記の"お約束"は、始発前の点呼など少しづつルールが変わったりもしたが、
大体はこんな具合だった。今ではこのような仕組みは無くなったようだが、これが
ネット予約もチケットぴあも、 携帯電話もポケベルも無かった頃の、チケット入手方法だった。
これだけ頑張って取ったチケットならば、9月13日更新の一公演に懸ける意気込み編
ライブの"予習"に勤しむ気持ちも解って頂けるのではないだろうか。。

こののち、チケット争奪戦に"チケットぴあ" "チケットセゾン"という仕組みが登場するのだが、
それはそれで、様々に苦労(?)した思い出話が転がっている。あの当時は、確か…
…その話は、またそのうちに書くことにしようと思う。