12/27/2009

Interplay ~Ⅲ~ ラヂオ・デイズ【ラヂオの夜明け 《後編》】


《前編》はこちら

往年のラジオやその資料の数々。
展示してあるもの全てが文字通りセピア色に変化した懐かしい物で埋め尽くされている中、
あるコーナーの一つの機材だけが、異質な冷たい輝きを放つものがあった。

玉音盤である。

最新の機器によって窒素ガスを充填したケースで厳密な温度・湿度管理のもと
この愛宕で保管、展示されている。その機材が放つ、微かなブーンという音。
スチールと厚いガラスの鈍い光によって守られた玉音盤は、 その中に鎮座していた。

~玉音盤と玉音放送~
昭和天皇は8月14日のポツダム宣言受諾を決めて後、詔書を朗読してレコード盤に録音させ、
翌15日正午よりラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることとした。
それまで宮中筋は天皇の肉声を放送する事は《 憚り(はばかり)あり 》として極端にこれを警戒し、
禁忌とされて慎重に回避されてきたが、それを覆す唯一の事例がこの玉音放送である。
玉音放送それ自体は法制上の効力は無いものの、天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、
これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていた。

~玉音収録に使用された機材~
マイク………当時最も性能が良いとされていたマツダAベロシティ    
レコーダー…日本電気音響(後のデノン)製のDP-17-K可搬型円盤録音機
       昭和11年にドイツから輸入したものと同製のテレフンケン
       型円盤録音機(2台一組で使用)            .
レコード……日本電気音響 10インチセルロース1枚に3分しか録音出来
なかったため、全5分の玉音は前半・後半のに2つに分けて録音した。

天皇の発案により録音は2回行われ、放送には2回目のテイクが採用されたそうだ。
録音作業は皇居内に於いて行われた。詔書裁可後、午後11時半分頃から翌日1時すぎまで
かかって終了し、レコードは徳川義寛侍従により皇后宮職事務官室の軽金庫へ保管された。

~「 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ
   其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ 」~


殆どの国民にとって天皇の肉声を聴くのはこれが初めての機会であった為に、天皇の声
そのものや独特の節回し(天皇が自ら執り行う宮中祭祀の祝詞の節回しに起因するという)
に大層驚いたそうだ。また沖縄で玉音を聞いたアメリカ兵が日本人捕虜に「これは本当に
ヒロヒトの声か?」と訊ねたが、答えられる者は誰一人居なかったという。

この放送では「敗北」や「降伏」といった言葉を用いることができなかったため、
昭和天皇は敢えて明治天皇が三国干渉に屈服した際に述べた言葉(「堪ヘ難キヲ…」)
を繰り返したとされている。また当時は電力事情悪化のため間欠送電となっている地域も
あったが、この時は特別に全国で送電、国外では満州、朝鮮、台湾、中国、南方諸地域に
一斉に放送された。また、放送を巡ってこんな事件も勃発した・・・

~ 宮城事件 ~

当時より、この玉音は敗戦の象徴的事象として考えられてきた。鈴木貫太郎首相以下による御前会議の後も
陸軍の一部には徹底抗戦を唱え、放送用の録音レコードをクーデター的に奪取しようとする動きがあり
録音を行った社団法人日本放送協会の職員が拘束されたが失敗に終わったクーデター未遂事件である。

日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳中将を殺害、
師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠した。
しかし陸軍首脳部及び東部軍管区の説得に失敗した彼らは自殺もしくは逮捕され、
日本の降伏表明は当初の予定通り行われた。

玉音盤への収録が終わった午前0時過ぎ、宮城を退出しようとした下村宏情報局総裁及び放送協会職員など数名が、
坂下門付近において拘束された。彼らは兵士に銃を突き付けられ、付近の守衛室に監禁された。
また、玉音放送の実行を防ぐ為に内幸町の放送会館へも近衛歩兵第一連隊第一中隊が派遣された。
宮内省では電話線が切断され、皇宮警察の護衛官たちは武装解除された。玉音盤が宮内省内部に存在することを
知った古賀少佐は第二大隊北村信一大尉や佐藤好弘大尉らに捜索を命じている。

午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べている。
事件に関係した将校たちは明らかに当時の軍法及び刑法に違反する行為を行なったにもかかわらず、
敗戦時の混乱によってその罪は法廷で問われることがなかった。

この事件について、また敗戦や天皇については此処で何ら判断するものではないが、
当時のラジオが持つ力や影響力を示す一つの証として、記しておこうと思う。

また玉音盤の傍らに付随して置かれていた資料と共に
一つの小さなポータブルラジオがガラスケースに収められていた。見ると、
" 昭和天皇が玉音放送を聴いたラジオ アメリカ・RCAビクター製 5球スーパー "
と書かれている。録音作業中にはドイツ製や日本の機材を用いた天皇が、翌15日の
放送時にはアメリカ製のラジオで聞いていた、ということはある種の象徴の様に思えた。

このレコードは1年で劣化するレコードであり保存状態は悪く、
実際の再生は困難であるとされているらしい。。。。。


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・・・館内を観てあるくうち 展示されている資料も次第にラジオからテレビへ、
さらに衛星放送やハイビジョンヘと大きく進歩・発展していくのが手に取るに解る。
我々はその中の1つ、『ラジオ・ドラマ』の資料に興味を惹かれた。

~ ラジオドラマの黄金時代 ~
第二次大戦後、敗戦国日本は混乱の渦の中にあり 一般国民の生活は窮乏していた。
そんな時代の中、 荒廃した人々の心に灯火をともすように 受信機から流れるラジオドラマが
広く親しまれた。終戦直後の代表作には戦災浮浪児の生き方を示唆した『鐘の鳴る丘('47~
'50)』。あるいは庶民の日常を描いた日本版ソープオペラ『向う三軒両隣り』('47~'53)
などがある。 そもそもそれらはGHQ指導の下、占領政策の一環として 人心の掌握と民主主義
の浸透を目指す、という意図の下に製作されたものだった。だが、次第に政策としての色彩は
弱まり、 また多くの才能や人材に恵まれて日本独自のラジオドラマとして開花し成長していく。
"銭湯の女風呂が空になる"とまでいわれた『君の名は('52~'54)』。 男女が織りなすドラマは
戦争未亡人と退役軍人という枠を超えて当時の国民的関心事となったことでつとに有名。



思えば…30年近く前、FEN(現AFN)でラジオ・ドラマ(英語)が夕方放送されていた。
当時の自分たちには登場人物が何を喋っているのか、話の筋さえ全く理解出来なかったが、
会話の抑揚でなんとなく"今はこんな内容かな?"と想像し、それが結構楽しかった。時折、
スポーツ中継の番組に変わっていたが、それもアナウンサーの興奮度で"点が入った!" 等々、
それはそれ──適当な想像で愉しんでいた。

ラジオと比較するとテレビから入る情報の大半は映像ありきであり、
画像としてのイメージをそのまま記憶するだけになってしまう。膨大な量のデータが右脳から入って
そのまま記憶されるので考えたり想像したりすることがかえって少なくなるのかも知れない。

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~想像する事の愉しみ~
日本ではじめてのラジオ・ドラマ『炭鉱の中』(リチャード.ヒューズ原作、小山内薫訳・演出)
炭鉱の爆破事故で、炭鉱の中に閉じ込められた老人と若い男女が、迫りくる水や死の恐怖に
怯えながら救助を待つ、光のない世界が舞台…という作品である。 このラジオ・ドラマに
面白いエピソードがある。放送されるドラマの冒頭で、アナウンサーは次のように言ったそうだ──

「電灯の灯りを消して、真っ暗な中でお楽しみください」。

ドラマの舞台と同じ"暗闇"を作ることで臨場感を出し、暗闇にすることで人間の想像力を
更に活性化させる。そういった意図が製作者である小山内にあったと思われる。
そして…当時のスタッフが放送の行われた愛宕山から街を見下ろすと、、、
一軒、また一軒と家の明かりが消えていったそうだ。

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~夢の実験場 ⇔ ラジオ~
声と効果音と音楽という音だけで創られるラジオドラマ。
そこには様々な新しい手法への試みも始められていた。
例えば、朗読とドラマの融合を探った小説風の番組であるとか、
世界文学を学者や評論家の解説付きでドラマ化したり。
あるいは大阪発の上方人情物でコメディに新機軸をもたらしたり…と、
ラジオの可能性を広げるべく日々挑戦が続けられたのだった。

その中には複数の登場人物をすべて二人の男女で演じる手法で後に長寿番組となった
森繁久彌と加藤道子の文芸ドラマ『日曜名作座('57~'08)』がある。 声色を巧みに
使い分け絶妙な間で語りかける森繁には大いに魅了された記憶がある──。

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~放送劇作家たちの挑戦~
戦後ラジオドラマの黄金期を作り上げた 才能のひとつに放送劇作家の西澤實という人がいる。
音源はおろか台本さえも現存しないそうだが、 子供向け番組から世界の名作シリーズに
至るまで 、およそ5000本もの脚本を書いたといわれる。 ある時彼は大胆にも口がきけない
男が主人公のラジオドラマを 作った事があるそうだ。当然、主役はセリフなし・・・ 笛で
コミュニケーションする、という設定で 音のみで感情や意思を伝えるという野心作だ。

何だか想像するだけでわくわくする、是非聴いてみたいものだ。
そして極めつけは──────

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~架空実況放送シリーズ~
戦国時代の関が原の合戦や豪華客船タイタニック号の悲劇的な沈没の様子、
果ては未来の世界へとテーマや舞台が縦横無尽に飛び、その歴史的記念となる
一日を実況中継風にドラマで再現してみせたという・・・

ベートーベンの葬式の中継放送、なんてテーマも扱ったらしい。

スポーツ中継のアナウンサーを起用し 音響効果にも専門家を配して力を入れたので、
相当に 臨場感溢れたリアル?な放送となったようだ。 中には現実の中継と勘違いした
聴者からの電話問い合わせもあったという。 かのオーソン・ウェルズの『火星人襲来』を
思わせる話で、スタッフ達の思わずニヤリとする様を想像するだけでも楽しい。


ラジオならではの音の特性を生かしたアイデアや
壮大であり異色な演出の発想。

ラジオドラマの黄金時代とは、まさに夢の実験場。
そう ──── 夢そのもののような時間だったのかも知れない。


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閉館時間を告げるアナウンスが館内に流れ始める。気がつけば外の様子も大分暗くなっていた。
まるで人の世から少しばかり離れた空間、別次元を少しだけ散歩してきたといったら言い過ぎか・・・
ひと通りは観て回れたし、ここは一旦切り上げることにして出口に向かって階段を下りていった。

先程のエントランス付近に設置された大きなモニター画面──
その前で一人の年配の男性が立っているのが見えた。

齢八十は軽く越えていそうな御仁である。閉館時間も気にせず、ただひたすらに
じっと映像を見つめているようだ。流れている映像は何処かの国のサッカー中継の
ようだった。しばらくの間、我々はその御仁の横に並んでそれを観た。

やや間をおいて一瞬その横顔を見てみた。
感情の起伏のようなものは窺えない。
ただ何処か、超然とした眼差しがそこにはあった。

やがて我々は出口に向かって歩き出した。

振り返るとその御仁は変わらず、佇んだまま・・・


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~終わりに~
玉音盤や受信機。それからとても放送機材とは思えない
装甲車の様なTVカメラ(かっこイイ!)等、好奇心が掻き立てられる資料ばかりであった。
同時に私たちと音楽の接点、過ぎ去っていった昭和の文化、或いは
ジャズ・エイジに対する憧憬 etc・・・を確認できた晩秋の終日であった。

今回分のINTERPLAYは何かしらの結論を出すのが目的ではなかった。
フィールド・ワークの大きな流れの一環として、または今後の布石として、
"ラジオ"をテーマとして取り上げる事によってアナヨルの今後に広がりを持たせる・・・
あくまでも企画の一部、序章編として続きはこれから乞うご期待──
と、 そんな感じで行けたらと思っている。

これからも折に触れてラジオやテレビなどに纏わる
フィールドワークやレビューを続けていきたい…そう思います。