1/10/2010

美しき天然



正月の雰囲気が少しずつ消え、また何時もの生活感を取り戻しつつある中【成人の日】と言う祝日だ。


思い起こせば「成人式」などは遥か彼方の昔に思える。
同級生の女の子達は皆振袖姿で、久しぶりに会った為か何処か男の子より皆少し「大人」に見えたと言うか、「大人」に近づいている...そんな事をおぼろげに覚えている。そして男性は殆ど「スーツ」姿であった。
が、自分は「黒と赤の英国製のスクールジャケット」に「黒の細身のパンツ、そしてベレー帽に水玉模様のスカーフ」を巻いて出席した(今考えると「トニー谷」みたいだなぁ)




因みに母親はそんな私を見て一言、

「お前はサンドウィッチマンか?...」。
そんな成人式でした(笑)






「サンドウィッチマン」と云ってもお笑いコンビの人たちではなく、
繁華街の路上に立って胴と背中に広告看板を付けたり
大きな看板を持ち派手な衣装で、街行く人々の目を引く
「広告宣伝屋さん」のことである。



現在でも繁華街などで見られるが、
私の幼少の頃よく目撃したサンドウィッチマンさん達は皆何故か「チャップリン」の様な格好をしていた。
日本では昭和20年頃から繁華街に見受けられ始めたと云われているが、恐らく第二次世界大戦後、負傷して職が無い復員兵達を低賃金で雇ったのでないかと思われる。(資料を調べると戦前からあったそうです)





「街の広告宣伝屋さん」と言えばもう一つの職業を思い浮ぶのが...そう、「チンドン屋さん」である。




「街頭広告宣伝」と言う点ではサンドウィッチマンさん達と同じであるが、明らか違う点は①「締太鼓と鉦(当たり鉦)を組み合わせたチンドン太鼓等の演奏、諸芸に通ずる」点と、②「チンドン太鼓、ゴロス(大太鼓)、楽士(クラリネット等でメロディを奏でる)、旗持(ビラ等を配る)の複数の人で編成されてる」点が挙げられる。

チンドン屋さんの歴史については諸説あり、江戸中期より「飴売」、薬を売る目的で市中を宣伝して歩きまわる「薬屋(今で言う薬局)」があるが詳しい事は不明で、「東西屋」の祖と言われる「飴勝」と云う法善寺を拠点として活動していた飴売が竹製の鳴物・拍子木を用い見事な口上から寄席の宣伝を請け負うようになった。というのが始まりではないかと言われている。

また、「大道芸」の「紅かん」という人物が両手に三味線、腰に小さな太鼓をくくりつけ、撥で三味線と太鼓を演奏し街を歩き回ったのが、現在のチンドン屋さんの演奏原型となったと云われており、その後はお囃子・楽隊など編成したり、映画のトーキーの登場により職を失った楽士や、また映画館の普及により芝居小屋(芝居の一座)の公演の縮小による人員の流入、ジンタの衰退による吹奏楽器の演奏家の加入を経て現在のスタイルが確立されたと言われる。

彼らが演奏するレパートリーはその時代の流行歌、現在では歌謡曲が殆どで誰にも馴染みある曲を選曲していると思います。田中穂積 作曲による「天然の美(美しき天然)」、どこか物悲しいく悲哀に満ちたメロディーは聴けば誰でも知っておりチンドン屋さんを象徴する1曲ではないでしょうか?

近年、音楽界でもチンドンのスタイルを基に様々なアプローチを試みるアーティストや、チンドン屋再評価の動きも見受けられます。これを機に街中でも更にチンドン屋さんを見られればなぁと。



2010年1月1日現在の20歳の人口は約127万人(男性約65万人、女性約62万人)で総人口に占める割合は1%。全員が平成になってから生まれた人で構成される世代である。


「昭和」がクラリネットのメロディと共に夕暮れの街に消えていく...。





【参考資料】

『チンドン屋始末記』 堀江誠二 著・二十一世紀図書館
『笑う門にはチンドン屋』 安達ひでや 著・石風社
『ノイズ』 11号 ミュージック・マガジン増刊 1991
『ものしり事典 風俗篇』 日置昌一 著・河出書房