「それそれ、その曲。もう一回、演ってくれないか?」 軽く頷き、彼の為にもう一度、弾いた。
彼は首を振りながら楽しげに聞いていたが、暫く黙りこんでから ある話を語り始めた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
…10年程前に死んだ親父は、熟練の機械工でね。元来無口な父親だったから、
俺とまともに話したことなんか、唯の一度も無かった。俺が一番覚えている親父の姿は
毎朝早い時刻に玄関を出る時の、あの後ろ姿だ。本当に仕事一筋に生きた人で…何十年
もの間、一日中ずっと仕事場に詰めていた。あの姿は今でも目に焼き付いている。
親父が死んじまってから何年も経って、やっと最近遺品の整理をしようと重い腰を
上げたんだ。遺品って言っても、大した物は何にも無いんだけどね。少々の衣類や書類、
…まあそんなものさ。僅かばかりの荷物の中に、古いトランクがあった。そのトランクは
皮で出来た、年季の入った代物でね。そのトランクがあることは前から知ってはいたが
お袋も俺も、その中に何が入っているかは全く知らなかった。
ある晩、俺はそのトランクを初めて開けてみることにした。トランクを開けて、心底驚いた。
その中に入っていたのはトランペットだったんだ。そしてトランペットと一緒に入っていたのは、
手書きの譜面────────
どうやら親父が書いたらしい、古びた楽譜の束だった。
その晩、俺はお袋に何が入っていたかを伝え、これがどういう意味なのかを聞いたよ。
親父は若い時分、トランペット吹きだったらしい。その腕前がどれ程のものだったかは
今となっては知る由も無いが、どうも金にならない仕事ばかり引き受けては吹いていたそうだ。
当然毎日の食べ物にも事欠く生活だったらしい。…そしてある日、とうとう親父は
そのトランペットを何処かに仕舞い込んだきり、二度と吹かなくなったそうだ。
──────丁度母親と結婚して、俺が生まれる頃の話だ。
それからの親父はトランペットを吹く事は一切無くなり、俺の知ってる親父─────
仕事人間になったそうだ。ただ、唯一残った趣味があったらしい。それが「作曲」だった
らしいんだ。昔、NHKで放送していた「あなたのメロディー」っていう番組、知ってるかい?
素人が楽譜で応募した曲のうち、毎週何曲かが取り上げて紹介する番組。親父はその番組に
何曲も熱心に応募していたらしく、番組で取り上げられた事もあったそうだ…
《あなたのメロディー》あなたのメロディーは1963年-1985年にNHK総合テレビジョンで放送された視聴者参加型の音楽番組。視聴者からオリジナル曲(基本は作詞・作曲)を譜面にて公募し、応募曲の中で優れたものを、毎週5曲程プロの歌手による歌唱で発表する、といった趣向の内容だった。北島三郎の代表作である「与作」や、"みんなのうた"で坂本龍一がアレンジを手掛けて話題を呼んだ「コンピューターおばあちゃん」等は、この番組から生まれた。 |
家族を守る為に、ずっと働き詰めの毎日。親父はその中で僅かばかりの暇を見つけては
自室に篭って楽器も使わずに作曲をしていたんだな。元来無口な親父の事、ましてや
音楽の話なんか唯の一度だって聞いたことは無かった。。
俺は本当に何にも知らなかった…
俺と親父はそんな疎遠な親子だったけれど、親父と音楽と言うと、たった一つだけ
覚えていることがある。酒を飲んでほろ酔い気分の時。仕事がひと段落した晩。
親父はそんな時には 決まって鼻歌を歌ってた。その曲がこの歌なのさ。
"MY BLUE HEARVEN"、さ。
I hurry to my Blue Heaven.
A turn to the right, a little white light,
Will lead me to my Blue Heaven....
親父と音楽のことを何も知らないまま育って、今や定年間近のサラリーマンになった俺だが
学生時代に始めたコーラスは今でも続いているし、5年ほど前からはチェロを習い始めた。
それを聞いた時、お袋は 「やっぱり親子なんだなあ、似ているんだなあ」って嬉しく
思ったそうだ。こんな俺を、親父はどう思うかなあ。聞いてみたいなあ…
ごく普通のありきたりな家庭だったが、それこそが親父にとっては
かけがえのないモノだったんだな。この歳になって、やっと分かる気がするんだ。
親父の気持ちが…
夕暮れに 仰ぎ見る 輝く青空
日暮れて 辿(たど)るは わが家の細道
せまいながらも 楽しい我家
愛の灯影(ほかげ)のさすところ
恋しい家こそ、 私の青空
・・・・この話は、実は ここでは終わらない。
この話を聞いてから半年ほど経った或る日。
件の彼が店に訪れて 「○月○日、店を貸切りにしたい」と店主に申し出た。
オーナーは最初浮かない顔をしていたもののやがてOKを出し、その日を迎えた。
当日。約束の時間になっても誰一人訪れない。彼からの連絡も無いままだった。
オーナーは ” やっぱり ” という顔をして、通常営業に切り替えた。
オーナーに尋ねると、「うーん、彼はお馴染みさんなんだけどね。昔からこういう事が
度々あるんだよ」と苦笑いを浮かべた。少なからず驚いて前述の話をすると、オーナーは
笑って「彼は調子よく話をする人だから。その話も 果たして本当かどうか…」と言った。
その何か月か後、彼がフラリと現れた。
オーナーと談笑しながら、楽しげに酒を飲んでいる。その人なつこい横顔を見ながら、
ふと、『話の真偽なんて、確かめる必要なんかないや』と思った。
彼の親父さんがペット吹きでもそうで無くても、
もしかしたら健在でいらっしゃるとしても、
"MY BLUE HEAVEN"が好きでも嫌いでも、例え知らなくっても、
そんなこと、どっちでもいいじゃない ──────
この曲を選曲するたびに、
会った事のない老齢の男性がおぼろげに心に浮かぶ。
その男性はつなぎの作業着姿で、いつもニコニコと笑っている。
そして、自分も楽しく弾き始める。
幻の彼の親父さんに、楽しんで貰えるように。