音楽の好き嫌いについては、他人がとやかく口を挟む類の事では無い。
しかし楽曲や演奏に対して何らかの評価を下す場合、人は往々にして音楽そのものでは無く
ある種の" フィルター "を通して音を聴き、作品の善し悪しを判断してしまっている例がある。
この場合の" フィルター "としては、
【演奏者(若しくは作曲者)の生い立ち】
【演奏者(若しくは作曲者)の遺作であること】
【演奏者(若しくは作曲者)が老齢であること】
【演奏者(若しくは作曲者)が人生の岐路に立った区切り】
【演奏者(若しくは作曲者)が何かの理由で健康を害していること】
こんな例が挙げられると思う。
そしてその種の" フィルター "はいつも何処かしら上から目線で語られる。そして
それは肝心の音楽そのものとは関係が無い。それにも関わらず「さあ感動して下さい」
「ハンデを背負った彼(彼女)が頑張っている作品なのだから良いに決まっているのだ」
と云わんばかりの有無を言わせない雰囲気を漂わせている。
また、聴き手側も極めて無造作にそれらの" フィルター "を受け入れ、受け入れている事
にすら気付かない儘に音楽(演奏)の善し悪しを判断したつもりになっている事が多い。
フィルターを通して音楽の善し悪しを決めるなぞ、不純だ。
音楽とはそんなに生っちょろく安いモノではないのだ。と思う。
不遇の者が頑張ったから、素晴らしい音楽なのか。
恵まれた者が産み出す作品は、素晴らしくない音楽なのか。
そんな筈、ある訳が無い。
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先週のgkz氏のレビューを読み進む内に、久し振りに
ある人の姿を懐かしく拝見した。ピアニストの舘野泉さんだ。
────────もう20年以上昔の話になるが、
館野氏の演奏を結構多く聴いていた時期があった。その頃氏は既にフィンランドに
本拠地を移していたものの、来日の度に精力的にバリバリと演奏活動をされていた。
その内 ホールでのリサイタルの他、たまに個人宅で行われるサロン演奏にも顔を出し、
その折のプログラムや氏の話を通じて当時日本ではまだマイナーであったメリカント
(Oskar Merikanto 1868-1924)を始め、北欧の作曲家達の作品にも触れる機会を得た。
……そんな気儘な生活は学生生活の終わりと共に何時の間にか遠ざかってしまっていたが、
何年か前に久しぶりに氏のニュースを耳にした。久しぶりにリサイタルを行うと云う。
その時は懐かしさも手伝い、ひさびさに彼の演奏を聴きに行こうかなぁと思ったものの、
…結局行く事は止めた。
行く事をおし留めた理由は、その伝え方にあった。アナウンサーは舘野氏を「脳梗塞により
右手が不自由になり…しかし不屈の精神で左手のピアニストとしてカムバックを遂げた人」
という、例の" フィルター "を通した伝え方に終始している様に聞こえたのだ。
案の定、彼の名を検索すると" フィルター "を全面に押し出した謳い文句や
「(" フィルター "を通して)感動した!!」というコメントが踊っていた。
恐らくその演奏会には、演奏会場に着いた時点で感動の準備万端の人や
「"感動物語"の目撃者になる自分」に酔いたい人が居るのかも知れない…
それでは肝心の舘野氏が持つ音楽性が無視されているではないか。
「そんな似非ヒューマニズムに塗れた輩(失礼)と一緒にされてはたまらん」
そういう思いが氏の演奏を聴く気持ちを殺ぎ、今日に至っていた。
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しかし先週のレビュー画像を眺める内に、思い違いをしていた自分に気が付いた。
「演奏者の経緯や周囲の評価と一切の距離を置き、真っ向からその音楽を
噛み締めようとしない自分も又、実は同じ穴の狢だったに違いない」と。
今迄の頑迷な躊躇いも又 聴く側のエゴ、音楽に対する冒涜行為だったのだ。
そうして、やっと、近年の氏の作品を聴く心境になれた。
さて 何から聴こう。
随分と回り道をしてしまったが、今からとても楽しみである。