11/17/2011

アメリカの夜 / La Nuit Américaine


監督・脚本・演出フランソワ・トリュフォーによる”映画の撮影現場”の映画───『アメリカの夜』1973年公開。翌年、日本公開時の邦題としてつけられたサブタイトルは”映画に愛をこめて”。その後 違う題名がついた時もあったそうだが、今はこれで定着しているらしい。ストレートだが悪くないと僕は思う───。

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【 La Nuit américaine as Day for Night 】
オープニング・タイトル───バイオリンの調律する音が聞こえる。───黒い画面に2本の光の帯が見える。光の帯は波のように膨らんだり縮んだりとバイオリンのチューニング音に合わせて変化していく。それらと同時に次々と出演者やスタッフのクレジットが画面を流れる。とてもシンプルな画面構成だ。

暫らくするとどこからか男の声が聞こえる「静粛に。譜面を良く見て正確に」。これは作曲者のジョルジュ・ドルリューの声だという。そうこうしている内に弦の音は増えていき、やがてオーケストラ風の重厚な響きになる。音量が大きくなるにつれて光の帯は太くなる。

また、声が聞こえる「譜面をよく読んで。そうそう。ゆったりとしたテンポで」。光の帯は一層太くなる「フェルマータに注意。そう。最後の音にはアクセントを」。ここでは音響が印象的な帯状の模様となっていて、それがまるで生き物のように視覚的に表現されていて面白い。センスと言うか遊び心を感じる。

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やがてアコーディオンの音色がオーケストラに重なる。一瞬にして物悲しい雰囲気に包まれる。だがそれもつかの間、しばらくすると音は跡形もなくすっぽりと消えてしまうのだ。固まったような無音の画面─────そこには古い映画のスチール写真が一枚・・・

Ce film est dédié à Dorothy et Lilian Gish.と手書きのメッセージが添えられている。調べてみるとD・W・グリフィス監督への献辞だという。特にグリフィス映画のヒロインだったリリアン・ギッシュに捧げられている。後にトリフォーは文章で述べている。

リリアン・ギッシュ───いまにもこわれそうな繊細な美しさに輝く肉体から見えざる不思議な力が静かに溢れ出ることの奇跡。彼女は両極端を見事に融和させる天賦の才を持っている───チェーホフとT・S・エリオットを、成熟と幼稚を、自然さと気取りを、演劇性と非演劇性を。だからこそ、私は心を込めて私の映画『アメリカの夜』を彼女に捧げたのである。───それは映画そのものを主題とした映画だったから。 ~ 『フランソワ・トリュフォー映画読本』 山田宏一 著 平凡社より ~
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【 François Truffaut 】
映画監督とは何か

『アメリカの夜』にはトリュフォー本人も俳優としても出演している。勿論、映画監督の役柄だ。本編を通して観て判ることは、映画監督というものは絶え間なく質問を浴びせられる存在だ、と云う事だ。

例えば撮影所のオープンセットをトリュフォー演ずる映画監督が歩くシーンでは、監督の許へと入れ代り立ち代りに衣装係・製作部・助監督・美術・メイクアップ・プロデューサー・小道具係と、大勢の関係者やスタッフが質問しにやってくる。その全てに指示を与えつつ、監督の脳裏では別の考えが渦巻いている・・・そこでのモノローグが秀逸だった。

「映画の撮影というのは、いわば西部の駅馬車の旅に似ている。美しい夢に溢れた旅を期待して出発するが、すぐ期待は失せ、目的地に到着出来るかどうかさえ心配になってくる・・・」 ~『アメリカの夜 ある映画の物語2』フランソワ・トリュフォー著 ~
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作品中、映画監督は撮影の進行を妨げる関係者の揉め事や予算やスケジュールの難航といった数々の出来事に悩まされる。しかし困難な状況に追い詰められながらも監督は他人を気遣い、撮影スタッフを盛り上げるのだ・・・まるで笑いは人生の糧とでも言うかのように。

和気藹々のムードで映画を撮る───それこそが人生最大の喜び。これがフランソワ・トリフォー自身が最も切望したことなのかも知れない。何故ならばそれは、夏休みの林間学校の思い出───幼少期の最も幸福な記憶へと結びつくからだと云われている───。

by gkz


参照資料
『アメリカの夜 ある映画の物語2』
フランソワ・トリュフォー 著
山田宏一 訳 (1988) 草思社
『フランソワ・トリュフォー映画読本』
山田宏一 著 (2003) 平凡社