少し前になるが、立川談志師匠の特集を観る為に珍しくテレビを点けた。
彼が演る古典落語を堪能しつつふと気が付くと5時間近く、本当にあっという間だった。
落語には本筋に入る前 必ず「枕」が付く。この"ちょっとした話"から本筋に移行する際、噺家はさりげなく座りなおしたりダルマ(羽織)をスルリと脱いだりする。枕は本筋とは違い、何をどう話すかは噺家の裁量に任されている。また演目のイントロダクションとしての役割を持ち、噺家は軽い世間話をしながら登場人物の人となりやこれから語る場面設定の説明を折り込み、次第に客を演目へと誘って行く。些か強引かもしれないが、私はこの枕の部分を聞く度に音楽の「ヴァース」や「語り」の"匂い"を何時も強く感じる。
今回は音楽の「語り」の部分について、
簡単な譜例を眺めながら思い付くまま書いてみることにする。
・・・・クラシック音楽の「語り」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
15世紀末から16世紀の後半にかけて出現したオペラやオラトリオ、カンタータといった歌付きの楽曲群。なんでも"古代ギリシャの演劇を復興を目指して『歌うような台詞を用いる』ことが考えられた"とか。。。そしてその結果「レチタティーヴォ」(伊・recitativo)と呼ばれる「語り」の部分が生まれることになった。
J.S.BACH
ヨハネ受難曲"Johannes-Passion(1724)"より
第2部「ピラトの審問」
Ludwig Van Beethoven
フィデリオ"Fidelio(1814)"より
第一幕 第九番 レチタティーヴォ
(オペラの場合レチタティーヴォはアリアの前に付いていて、話を展開させたり登場人物の心情の動機を説明したり…とかなり重要な役目を持つ)
どちらも一見すると普通に書いてあるように見えるものの、メロディーのリズムは単なる目安でしかなく、実際は拍子も自由に歌われる(音高と歌詞だけは譜面通り)。歌い手はこれから展開する場面や歌詞からテンポ感や楽想を自由に設定し、観客を本題へと感情移入させる役目を担う。制約が多いと見なされがちな古典音楽の中でここまで自由度が高いということは、取りも直さず歌い手の表現力が問われる箇所の一つであることは間違い無い、と思う。
…そして古典音楽の「語り」は世俗へ、全世界へと飛翔してゆく。
・・・・シャンソンの「語り」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
マイ・マン"Mon homme(1920)"より クープレ
…私のあの人 そう私の彼は
冷たくてじめじめ いつも疲れてるの
物語に出てくるヒーローでもないし
ルックスも好くない コストが大きいったらありゃしない
それに彼には 何時でも 2、3の女が居るらしいの…
<日本語訳:浅川マキ>
"クープレ"と呼び名は変わっても「語り」の置かれる場所や役目は全く同じ。"マイ・マン"の「語り」は主人公(女)の遣る瀬無い心情や不遇な様子がで見事に表された例だと思う。この曲の「語り」は 自嘲めいたノリで歌われることが多い。がしかし、浅川マキの場合は少し違う。少し擦れた、呟くような声。その闇に包まれた様な「語り」部分は酒に酔った女が問わず語りを始める様に似て、聴く者を一瞬にして深夜の酒場へと連れ去ってしまう。 Billy Holidayもそんな風に歌っていたのを思い出した。
Billie Holiday, My Man |
特に1分55秒~2分05秒の"Oh, my man, I love him so..."のルフラン(リフレイン。この曲ではメジャーの部分)にかけての部分は前述の「噺家が羽織をスルリと脱ぐ」効果バツグンだと思う。
・・・・JAZZの「語り」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
"STARDUST(1929)"より VERSE
メロディーが非常に和声的であるにも関わらず、やすやすと滑らかに唄うNat King Coleは矢張り偉大だ(暫し溜息)。
Stardust - Nat "King" Cole |
この曲もコーラス部分への架け橋"Sometimes...I...wonder~"の箇所は何度聴いても「羽織をスルリ」効果を感じる。蛇足ながらJAZZの現場で「SOLOは4バースでね」などという時の"VERSE"とは意味が少し違うのでお間違えの無き様に…
・・・・POPSの「語り」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
PRINCE "LET'S GO CRAZY"より Introduction
ここまで来ると最早音程すらも無くなっている。
「これが『元レチタティーヴォ』かよ…」という声も聞こえてきそうだが、これから始まる怒涛のプレイの数々を充分に予見させる台詞廻しやそれに呼応する鍵盤のクラヴィコードさながらの立ち居振る舞い、聴く者を次第に紫の王国へと引きずり込む様は正に現代(…)版レチタティーヴォだと言える、と思う。
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時代に応じて多様に変化してきた「語り」の部分。そのフォーマットを用いた曲は少なくなる一方だ。
また最近は折角「語り」が付いているにもかかわらず見逃されたり簡単に省略されてしまうことが多く、些か勿体無いように思う。演奏者の力量を存分に発揮出来る「語り」が"再発見"される事を心待にしたいと思う。