5/31/2009

~InterplayⅠ~ ワン・レイニー・ナイト・イン・トウキョウ



─────マウスを捨てよ、街へ出よう─────


拙ブログを初めて三月余り。
気が付けばパソコン前で過ごす時間が多くなっていた。
資料集め、構想、レイアウト、執筆、エトセトラ、エトセトラ・・・
レビューコンテンツが中心の素人ブログとは言え、
気持ちだけは一丁前にに気負い過ぎていたのかも知れない。
そんな少しばかりの反省を込めて、今回は「フィールド・ワーク」と洒落込み
外の空気を吸ってみようと思い立った。

─────失われた時を求めて──────

東京に住んで、もう何十年経つだろう。
幼い頃に遊んだ空き地には綺麗なビルが建ち、
ふと見返すと学生時代に馴染み深かった行きつけの場所は
次第に店を畳み、淋しい思いをする事が次第に多くなってきた。

見慣れた街の、知らない店。
そこに集い戯れる、自分たちとは違う価値観を持った若者たち。
そんな「街のニューカマー」と自分との軋轢を感じることが少なくない一方、
その前の世代から見た自分たちも又、「ニューカマー」であることに変わりは無い。

自分達の知らない、懐かしい時代へ。
その当時「新しい音楽」を発信していた場所へ行ってみよう。
場所は赤坂「ラテン・クオーター」、銀座「銀巴里」、浅草「浅草六区」の3ヵ所に決めた。



●●●●●赤坂/ラテン・クォーター跡地●●●●●

ラテン・クォーター:1959-1989。かつてホテル・ニュージャパン地下に存在した、日本有数のナイトクラブ。
店名は"カルチェ・ラタン"の英訳。"カルチェ"は「地区」、"ラタン"とは「ラテン語」のことであり、
「ラテン語を話す学生が集まる地区=教養が高い人が集まる場所」の意味を配したこのナイト・クラブは
国際的社交場として各界の大立者たちが集い、音楽と酒に興じ、また様々な取引なども行われていたらしい。
ステージ上にはナット・キング・コールやサッチモを始め、現在では考えられない程の超一流アーティストが出演していた。
出演交渉役は後の「キョードー東京」の取締役、永島達司氏。「ビートルズを日本に呼んだ男」として知られる男である。
ホテルニュージャパンが1982年2月8日に火災事件を起こした後も営業を続けたが、7年後の年5月27日に閉店。



自分の中では"ホテル火災が大事件としてTVで扱われた"という遠い記憶があるばかりの場所。精々、子供の頃に読んだプロレス漫画を通して"力道山が刺殺された場所らしい"という覚えがある程度だ。

知り合いの60代の方々に当時の様子を尋ねてみたら、皆懐かしそうに目を細めながら「いやあ、本当に豪華な場所でねぇ」「チャージが高くてね…学生の身分だったから、カウンターの隅にやっと座らせて貰ってナットを観たよ」と当時を懐かしげに振り返ってくれた。

例の火災跡の廃墟は何度か見かけたが、今はどうなっているのか…

…その場所の跡地には、外資系の保険会社のビルが建っていた。雨模様の中 その高さを知らしめるかの如く最上階の辺りは霧に覆われ、聳え立つ巨大なビル…いきなり肩透かしを喰らったような、何ともいえない戸惑いを覚える。そう、前述の事々の残滓すら、微塵も感じられなかったからだ。代わりに感じたのは《時代の変遷のスピード》と《この場所には今、音楽が求められていない事》…

一応ビルの人に尋ねてはみたものの、返って来た答えは
「当時を偲ぶものは一切御座いません」だった。

…半ば途方に暮れ佇んでいると、
敷地横の細い坂道から女学生達が三々五々降りて来て横を通りかかった。蔦の絡まる石垣を見つつ息を切らしながら坂道を登りきると、高等学校が見える。「時代が変わっても、学問は変わらず求められるモノだな…」と思うと同時に高校時代に学んだ一文が頭を横切った。

…奢れる者も久しからず、たた春の夜の夢の如し…



●●●●●銀座/銀巴里跡地●●●●●

銀巴里:1951-1990。 日本初のシャンソン喫茶店。 「日本シャンソンの故郷」とも云われたこの店には常にリベラルな空気と創造する活気 に満ち溢れていたという。 美輪明宏、戸川昌子、クミコ、金子由香利、戸山英二、大木康子ら錚々たる歌手を多数輩出し、三島由紀夫、なかにし礼、吉行淳之介、寺山修司、中原淳一らが集い演出に尽力。 中でも三輪明宏が17歳の時に銀巴里と専属契約し歌手デビューしたことは有名。 1957年には「メケ・メケ」が一躍大ヒットし、彼のスタイルはマスコミから"神武以来の美少年"、"シスターボーイ"と評され、「天上界の美」と三島由紀夫が絶賛した美貌で一世を風靡した。 1990年、ビルの取り壊しと共に姿を消したが、その跡地には石碑が立てられている。         




終戦後の銀座…といえば、米軍が主体の連合国軍が接収した帝国ホテルを始め、アメリカ文化がどっと入り込んできた時代のイメージがある。
しかし、その当時に出来たこの店の内装や雰囲気はそれとは全く別モノだったらしいこと等を考えると、当時のクリエイター達の独自な視点や何者にも囚われない自由な発想力の迸りを垣間見る思いがする。
その後も銀座には多くのシャンソニエが在ったが、銀巴里はその中の"殿堂"としていつも存在し、銀巴里無き後はその数も減る一方だ。

小雨模様の歩行者天国をすり抜け、銀巴里跡地へ到着した。現在は高級万年筆メーカーのショップへと変貌しているその場所に、うっかりすると見落としてしまう程の小さい石碑が設置されていた。
銀座の中でも7丁目界隈は まだ当時のゆったりしたイメージを微かに留めているような気がするが、それでもリニューアルした資生堂や天国を始め、当時とは様子が変わっているのだろう。

石碑を撮影していると、銀ブラを楽しむ通行人が「?」といった顔をしつつも、そ知らぬ顔で通り過ぎて行く。2009年の銀巴里の現在進行形である小さな石碑を見ながら、在りし日の若者達の情熱を石碑の何処かに
感じ取ろうとした。。。


…遥かな昔に 去りし人の歌
今日も街に流る面影知らずに 歌われる歌よ…

(「詩人の魂」より一部抜粋)



●●●●●浅草/浅草6区●●●●●

明治時代に公園化された浅草公園。その中でも一番賑わった地域を人は「浅草六区」と呼び、親しんだと云う。
古くは江戸時代の仲見世が発展したこの地域は演芸場や芝居小屋が立ち並び、活況を呈した。震災後も興行界
の要として賑わい、戦後も庶民に様々な歓楽を供してきたが、高度経済成長と共にその勢いは衰えてしまった。


最終目的地をここに選んだ時、まず「どうして浅草が大衆芸能が盛んであった事」を考えてみた。東京15区を制定した明治11年当時は人口数も現在と比べ少なく、また交通機関等の利便性を考えると自宅から職場まで歩いて行ける場所(人口が密集されると思われる)が下谷区、浅草区(現在の台東区)だったのではないかと思う。また、浅草は「品川湊、江戸湊」と並び水路が発達している港町であったことも一考の余地があるように思う。

  ~チョイと出ましたあきれたぼういず♪暑さ寒さも吹き飛ばし、
  春夏秋冬明けても暮れてもうたいまくるが♪あきれたぼういず~


川田義雄(後の川田晴久)、坊屋三郎、芝利英、益田喜頓、および山茶花究による日本のヴォードヴィル・ボーイズグループのテーマソングだ。端歌、小唄、歌舞伎などを各国のリズムにのせスイングした演奏は内務省の検閲に引っ掛かり発売禁止となるが風刺精神溢れた歌詞は幅広い層に受け入れられ、瞬く間に人気が高まっていった。復活後の彼らが活躍した場所が、当時浅草6区に吉本興業がオープンした「浅草花月劇場~吉本ショウ」であった。

一時は一大繁華街として名を馳せ、大衆芸能の中心地として栄えた場所。下町には疎い自分がパッと思うだけでも 浅草オペラ、寄席、ストリップ小屋、エノケンを初めとする数々の東京芸人やニューイヤー・ロック・フェスティバル、サンバ・カーニバル等はすぐに思いつく。
そして、それと同時に一対の"影"の部分もまた然りだ。阿佐田哲也ら戦後闇市派が描いた闇と飢えの世界。梶原一騎が自分達に教えてくれた、"あしたのジョー的世界観"である。


─────そんなことをつらつらと考えながら、
浅草六区のメイン・ストリートまで来た。
一向に止まない雨…
けれど、家族連れや外国人旅行者たちは
のんびりと浅草観光を楽しんでいるようだ。

かつての浅草オペラ跡地は今やフットサルのコートに変貌しており、
若者達はゲームセンターやカラオケボックス等で専ら最新機械と戯れている。その傍ら、ひっそりと其処此処に佇む初老の男達の姿は
皆一様に所在無さげで、どこか打ちひしがれたように滲んでみえた。

やはり、今日巡った場所は もう音楽を必要としていないのかもしれない…
最終便の水上バスから見た街の灯りが 橋を潜るたび遠くに消えてゆく。
エンジンの音と共に…

小雨降る夜は なぜか淋しくて…
  ワン・レイニー・ナイト・イン・トウキョウ
  遣る瀬無い雨よ…


【 text by DJ with gkz,電気羊   photo by gkz   edit by 電気羊】