5/10/2009

クラシック音楽の限界を突き抜けろ! 4'33''


クラシック音楽には、
他のジャンルの音楽に比べて《ルール》が多い。
また、クラシック音楽は音楽理論のみならず、
時にはそれに接する際の態度や服装、果てはマナーにまで意味を持たせ
ルール(=お約束事)を強いてくる傾向がある。

また、クラシック音楽が持つ《ルール》のひとつに「譜面通りにキチンと演奏しましょう」という事がある。
作曲者の意図を聴き手に伝えるためには必要な要素だが、そればかりが重要視されるのは危険だ。
《間違えずに正しく弾けたら◎、上手く弾けなかったら×》という安直なきまりは
聴き手側に感性や美意識が全く無くてもある程度の読譜力と聴力さえあれば簡単に解るからだ。

又このルールは「テクニック偏重主義」という足枷を自らに科す結果となっているように思う。
《上手く弾けるか、弾けないか》の一点でその演奏の良し悪しを二元論的に判断する人が多いという事は
機械的に正確で無難に小さくまとまった演奏誘発しているように思うからだ。

時には苦痛も伴う 色々な《ルール》だが、その一方には
構築された美や協調性、型の美しさや様式美も確かに存在する。

クラシック音楽は、その面倒な《ルール》さえなんとか潜り抜けることが出来れば
先人達が創り出したイマジネーションの奔流を追体験することが出来るのに、
そんな事で敬遠されてしまうのは勿体無いなあ…と、以前はよく思っていた。 
そしてその印象は、ある時期に払拭された。


・・サントリーホールと国際作曲委嘱シリーズ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


赤坂にあるサントリーホール(Suntory Hall)が1986年に開館して以来
今も続いている企画のひとつに「国際作曲委嘱シリーズ」というものがある。

武満徹やヤニク・クセナキスを始めとする著名な現代作曲家に
サントリーホールが作曲を依頼し世界初演を行うという贅沢な趣向。
この企画はその豪奢なホールと共に当時かなり話題になり、自分も何度か足を運んだ。
中でも印象深く、今でも鮮明に覚えているプログラムがある。


  ~1986年12月8日(月)サントリーホール オープニング・シリーズ~
   クリスチャン・ウォルフ:エクササイズ24〔世界初演〕
   クリスチャン・ウォルフ:エクササイズ25〔世界初演〕
   エリック・サティ:ソクラテス〔日本初演〕
   アントン・ウェーベルン:交響曲 op.21
   ジョン・ケージ:エトセトラ2(4群のオーケストラとテープのため)〔委嘱作品・世界初演〕


・・音楽と偶然性・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ジョン・ケージ
(John Milton Cage、1912/9/5 - 1992/8/12)


L.A.生まれのこの作曲家が唱えたのは「偶然性の音楽(aleatoric music,chance music)」。
一言でカンタンに言ってしまうと、「偶然居合わせた全ての音は音楽」である。
なんだそんなことか、と言われればそれまでだが、音楽の再現や予定調和を
ひたすら目指してきたクラシック音楽界にとって、それは衝撃を持って迎えられた。

例えば、こんな感じだ。
楽譜には周波数とオン・オフの時間が幾つか書かれている
 演奏者はステージの上にラジオを持って上がり
 指定された周波数にチューニングを合わせるだけ。
 演奏会の日時や時刻、場所は何も考慮されていないため、
 その瞬間にどんな音がラジオから流れてくるかは誰にも分からない。
虫取りカゴからチョウチョを出し、演奏会場の中に放つ
 チョウチョが何処かに行ってしまうまでがその曲であり、
 その間に会場内に聞こえてくる音がその曲とされる。
易学に使う筮竹やサイコロを用い、無意識のうちに決した数字によって演奏する音が決まる。

これらの概念が最も研ぎ澄まされた形で出現したのが、「4分33秒」だ。
ケージの名前は知らなくてもこの曲名なら知っている、という人は多いと思う。

・・4分33秒・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



4'33''
作曲1952年  初演1952年8月
(米国ニューヨーク州ウッドストック、
 ピアニスト、デイヴィッド・チューダーによる)

演奏者(楽器は自由)がステージの上でじっとしたまま、
ある程度の時間(長さは任意)を経て袖に引っ込む。
(冒頭画像は楽譜)

John Cage - 4'33" by David Tudor
http://www.youtube.com/user/anayoru



この曲はよく「沈黙の音楽」と形容されたりするが、
それは大きな間違いだ。

そのぎこちない《間》に演奏会場に聞こえるすべての音
(それは空調の音や外の喧騒、ある時は軽い咳払いや
むずかりだした赤ん坊の泣き声かもしれない)を聴き、
その《音》そのものや偶然を楽しむ、という意味だと思う。

ケージが作った「チャンス・ミュージック」という概念そのものや
演奏者の選曲という行為は無作為では有り得無い。しかし
そんな事を言い始めたらキリが無いので、ケージは
「最小限度の作為を含んだ、偶然の音楽」を「チャンス・オペレーション」と名付けている。
確かに、この辺りが 音楽というものが許容する「無作為・偶然」の限界点なのかな、とも思う。


・・クラシック音楽 ⊂ ケージ?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


この時点で、いつもひとつの疑問が沸いた。
ケージの音楽は「クラシック音楽」なのかどうか???ということだ。

演奏される度に違う様相を呈する音楽・・・即興性・・・インプロヴィゼーション・・・といったら、
真っ先に思い浮かぶのはジャズだ。ジャズも「スィング」や「モダン」を通り、
フリージャズ」を経て「ポスト・フリー」というジャンルを見出している。
(ポスト・フリーも現代音楽の範疇とする人\説もあるが、それはそれで理由が希薄で
どうしても合点がいかない)


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話を元に戻そう。
前述の日、ケージがクラシック音楽家かジャズマンなのかを確かめようとサントリーホールに出向いた。
お目当てのケージの曲は、ニューヨークのケージ宅で録音された室内の音がテープによって再生され
それに加えて「演奏者」が一人すつステージに現れ、音を奏でては次々と舞台袖に帰っていく、
という趣向だっだように思う。演奏者達(その日は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団だった)は
想像以上にリラックスしており、和やかに「演奏」が続いていく。なんだかホッとした気分になった。

俯瞰でこの演奏会を体感しようとステージ横の席を選んだお陰で、観客席の様子もよく見えた。
殆どの聴衆は借りてきた猫のようにおとなしく真面目な顔をして座っている。
前から6、7列目に陣取っている著名な批評家連中は皆一様に
難しい顔をしてステージを睨みつけているように見える。

と、観客席の後方に長身な外人さんが座っているのが見えた。
ケージ本人だ。

皆が真面目(そう)に座っているのに、
彼だけがその長い脚を組み、ニコニコと面白そうに笑っている。
服装も、周囲がドレス姿やスーツなのに対し、彼だけが
Gジャンとブルージーンズ、といったラフな感じで浮きまくっている。
その佇まいを見て「やっぱりケージはクラシックの人じゃないな」
と直感的に思った。

しかし困ったことに…彼はジャズマンにも見えなかったのだ。
(画像矢印の人物が晩年期のケージ)



    



強いて言えば、彼は
 "カントリー&ウエスタン好きな、普通のアメリカのオジさん" 
に見えた。