7/26/2009

" ディア・ハート " ~村上春樹 著 『 螢 』によせて~



普段何気ないことではあるが、
私達の記憶は無意識のうちに整理され保存されるものらしいと聞く。
然るべき所に整理される記憶──記憶の引き出しといったところか。

そういった記憶メカニズムも、
例えば精神的ショックや強い心理的ストレスを受けると
その時の記憶を丸ごと未整理のまま抑圧するそうだ。

抑圧された記憶──困ったことに、いつまでも
未消化のまま何処かに保存される事態となるのだろう。

更に嫌な思い出や触れられたくない出来事を無意識に避けようとして、
自分の興味や関心を限られた狭い範囲に制限してしまうことも・・・あるらしい。


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” 僕にはいろんなことがうまく思い出せなくなっていた。
何もかもがおそろしく遠い昔に起こった出来事のように感じられた ”

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村上春樹の短編 『 螢 』。後の「ノルウェイの森」の原型といわれる。
この作品では触れたくない記憶が原因で心理的な狭窄に陥った主人公の姿が描かれている。
作品中ヘンリー・マンシーニのレコード「 ディア・ハート 」がひとつのガジェットとして使われているが、
これは恋人への思慕を歌う歌詞の内容が暗喩になっているのかもしれない。


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~村上春樹 著 「 螢・納屋を焼く・その他の短編 」 新潮文庫 1984年~

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” 寮の一日は荘厳な国旗掲揚とともに始まる。もちろん国家も流れる。
ー中略ー

国旗を掲揚するのは東棟──僕の入っている棟──の寮長の役目だった。
背が高く目つきの鋭い五十前後の男だ。 ー中略ー この人物は
陸軍中野学校の出身という話だ。その横にはこの国旗掲揚を手伝う
助手の如き立場の学生が控えている。この学生のことは誰もよく知らない。
ー中略ー
僕は寮に入った当初、よく窓からこの光景を眺めたものだ。
ー中略ー
「 さざれ石のぉ── 」というあたりで旗はポールのまんなかあたり、
「 まぁで── 」というところで頂上にのぼりつめる。 そして
二人は背筋をしゃんとのばして「 気をつけ 」の姿勢をとり、
国旗をまっすぐに見上げる。 ”

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それにしても冒頭部分──、
するするとポールを上がっていく旗と厳かに執り行われる儀式、
主人公の生活する学生寮での国旗掲揚と「君が代」の描写。
ここにおいて長々と扱った意図は何であったのだろう。


また、” 死は生の対極としてではなく、その一部として存在している ”
という主人公のモノローグが登場するが、これも気になるところだ。
一般論的な発言の真意、その核心部分は何処にあるのだろうか…興味深い。


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” 日が暮れると寮はしんとした。国旗がポールから降ろされ、食堂の窓に電気がともった。
ー中略ー僕は屋上の隅にある錆びた鉄の梯子を上がって、給水塔の上に出た。
ー中略ー
右手には新宿の街が、左手には池袋の町が見えた。
車のヘッド・ライトが鮮やかな光の川となって、街から街へと流れていた。
様々な音が混じりあったやわらかなうねりが、まるで雲のように街の上に浮かんでいた。 ”

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小説の終盤、蛍を放つ場面ではそれまでと一転して、
主人公の視野が一気に拡がるように夕暮れ時の情景が瑞々しく描写される。

その際立って美しく語られる淡い闇に解き放たれる光の軌跡──
読後、余韻と共に本の余白ページに溶け込んでいくかのようでもある。




by gkz
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