8/02/2009

戦中・戦後における音楽(後編)



巡業先で玉音放送を聞いた故 淡谷のり子さんはこう語った。

【 私はあの日の、しんとした静かさを忘れることが出来ない。
物音一つしない、虚脱したような空虚な静けさが、
晴れ切った真夏の空と大地との間に広がり満ちてた。
戦争というものの持つ狂騒音が、ばったりと死に絶えて、新しい誕生を待つ夜明けのしずけさのようでもあった。 】


1945年11月。
「東洋一の大劇場」と呼ばれる「東京宝塚劇場」は11年目を迎えていた。
アメリカ第8陸軍は歌舞伎座・有楽町座等の視察を終え、東宝に対し「日劇」を接収通達を行う。しかし、東宝の重役会は「日劇ではなく宝塚劇場を接収して欲しい」旨の嘆願書を提出していた。




アーネスト・テーラー・パイル(Ernest Taylor Pyle)アメリカ合衆国のジャーナリスト。ファーストネームから「アーニー」と呼ばれ、第二次世界大戦に従軍記者として同行し1944年ピューリッツァー賞受賞。


東京宝塚劇場を接収した際【アーニー・パイル劇場】と名付けられた。



アメリカ軍側での接収を担当したのが第8陸軍の『ルーテント・バーカー中尉』。
当時の劇場支配人、『結城雄次郎』はアメリカ軍側の劇場の「全面接収」を何とか阻止しようとした。それは敗戦国で貧しい食事・貧しい衣服を着ている民衆に少しでも娯楽を与え、心まで貧しくならないようとの劇場に携わる者としての信念からだった。
結城支配人は一部利用を条件に交渉するが、しかし、要求は全く受け入れられなかった。

要するに敗戦国は交渉の場さえ与えられなかった。


余談ではあるが、このバーカー中尉はアメリカ中西部アラバマ州の出身でラジオでしかJAZZを聴いたことが無く、ニューヨークなどの大都市のミュージカルなど一切見たことが無かった。
当時日本に進駐してきたアメリカ軍人のほとんどが同じようであったが、日本人は全てのアメリカ軍人は「Big bandのJAZZを生演奏で聴き、ミュージカルなどは飽きるほど観ているものだ」と思っていたらしい。
また、アメリカ軍は日本での将兵慰安の年間予算を1,000万超見積もっていた。(現在の紙幣価値で考えると50億!!)

勿論、アーニー・パイル劇場にもその予算のお金が注入されたことは言うまでもない。


当初アメリカ軍は劇場でのレビューのスタッフを本国から呼ぼうとしていた。
何故なら「日本人にレビュー(音楽・踊り)が出来るはずがない」と思っていた。しかし、現実的にそのようなことが出来ないと分かり、日本人によるレビューが生まれようとしており戦中JAZZが禁止され外地などで巡業していた日本人ミュージシャン、歌手、踊り子(ダンサー)達が続々と戻って来た。
その中の1人演出・振り付け担当の『伊藤道朗』の功績は舞台の内外問わず大きく、敗戦で失いかけた日本人の【自信】を呼び戻し最高のレビューを作りあげた。


しかし戦場から戻って来た男達は喪失感に打ちのめされ、
帰らぬ男達を待っていた女達は、彼女らの処女性を捨て生き抜いていく。
踊り子とG.I。
G.Iと恋に落ちアメリカ本国へ...一見幸せに思えた彼女らだったが、日本ではとても魅力的だった彼等も、本国戻ればただの世間知らずの田舎者で、どちらかと言えば下層階級に属している者達だった。

現実はレビューの様ではなく厳しいものであり、現実逃避するか如く【娯楽(音楽・踊り等)】が求められていた時代だったのではないでしょうか?そんな【娯楽】が求められた時代にも関わらず、

アーニー・パイル劇場のレビューは『日本人が誰一人、観ることが出来なかった』。


音楽を通じて『斎藤憐』氏の本に出会い、世間で言われている「戦後昭和史の断片が全て」だと知らぬ間に思い込んでいた。物事を多面的に検証・実践の繰り返していく必要性は、
音楽にも通ずると今更ながら改めて再確認しました。

また、この様な時期にこの様な文章を書くと「過剰な被害者意識」に基づくものと思われがちですが、我々被害者もまた「加害者であった」事を忘れてはならない。






[参考資料]

・「わが放浪記」 淡谷のり子 (潮文社新書 19692年)
・「幻の劇場 アーニー・パイル」 斎藤憐 (新潮社 1986年)
・「昭和の歴史8・占領と民主主義」 神田文人 (1983年)