10/11/2010

萌え死ぬかと思った(リクエスト・ノートより Ⅳ)



9月の終わり頃、一本の電話が店に入った。最初は店員が応対していたが
そのうちにママに代わり、何やら話し込んでいる。 暫くして少し困った
表情をしたママが受話器を押えながらこちらに来た。 「ご予約のお客様
なんだけど、"店で一曲歌わせて欲しい"と言ってきかない。さっきから
お断りしているんだけどね、どうしよう…」

その店の趣旨として、開店当初からお客様の歌や演奏の一切を丁寧に断って
いるのだが、電話の主は" 大切な友人の記念日なのでどうしてもその曲をプ
レゼ ントしたい、お願いします"と繰り返してばかりだ、とママは当惑げに
続けた。「そのリクエスト曲は、何?」と小声で訊くと、ママは押えていた
受話器に向って話しかけ、やがて「Blue Velvet」とメモに走り書きをした。

記念日に贈る曲が、Blue Velvet?と少し訝しく思ったが、その一方でちょっ
と興味が沸いた。この曲を、どんな人がどんな人に贈るのだろう… 「どうし
ても、と言うなら別に構わないけど。よく弾く曲だし」とママに言うと、ママ
は困った顔をしながらも頷き、また受話器の向こうへと話し始めた。


やかて話がまとまったらしく、電話が切られた。ママによると、歌う曲は
Blue Velvet1曲のみ。予約の時間はお客様の少ない、早目の時間帯にして
貰ったそうだ。また先方はヴォーカル・マイクを貸して欲しいと言ったそう
だが、流石にそれは断ったらしい。代わりにピアノのすぐ横に席を設け、ピ
アノに合わせて席で歌って貰う事にしたわ、とママは言った。 普段とはち
ょっと違う仕事に面白味を感じたが、それっきりその話を忘れてしまっていた。


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


先週、店に着くとママが開口一番、「今日だからね。あのお客様」と言った。
ん?なんだっけ?? …ああ、あれか…と思い出しつつ「了解、了解」とママ
に告げ、何時ものようにピアノを弾きながら客の到来を待った。

───────「いらっしゃいませ」とピアノ横の席に誘われた客。ピアノを弾き
ながらさり気無く彼等をチラと一瞥し、ちょっと驚いた。  想像よりもかなり年
の若いカップル(…死語?)。二十歳そこそこの男女が少し緊張気味に席に収
まり、渡されたメニューに見入りながら静かに会話を交わしていた。

その店は、立地等から店に来る客の大半が社会人だ。リクエスト曲の渋さと普
段の先入観から、皆てっきり壮年~初老の夫婦か男性二人に違いない、と勝手
に思い込んでいたのだ。電気羊の予想を見事に外した少年のシンプルな真っ白
いTシャツ姿は、明かりを抑え薄暗くした店の中で一段と白く、彼の若さを更
に引き立てている様に眩しく目に映った。


女の子は少しお洒落な姿だった。彼女は闊達な性格らしく、始終話をリードし
続け、一方のおっとりとした大人しそうな少年はうん、うん、そうだねぇ、と
ニコニコと相槌を打っている。この若いカップルのどちらが歌うんだろう…

当たり障りのない曲を弾き続けながら「はてどうしよう?話しかけようか?」
と思っていたら店員が傍らに来て小さい紙片をピアノの隅に置いた。紙片には
《リクエストはそのセットの一番最後に》と書かれている。誰にとも無く小さ
く頷き、そのまま何曲かを弾き続けた。果たして顛末はどうなるんだろう…?


◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


遂に、そのセットの終わりの時間になった。曲のテンポもキーも何も全く打ち
合わせをしていないので大丈夫なんだろうかと少し心配になったが、まあ有名
なBobby Vintonのヴァージョンでいいだろう(と言うより電気羊が不勉強な為
、実はそれ以外を余り知らない)と思い直し、歌い出しが判り易いように、と
イントロをゆっくりと弾き始めた。

「おっ、Blue Velvet」と最初に反応したのは少年の方だった。「俺さ、この曲
好きなんだ」。 すかさず彼女が「ね、ね、私ね、この曲歌えるんだ」と言う。
少年が意外そうに「へえ?」と言うと彼女は頷き、席に座ったまま歌い始めた。


She wore blue velvet
Bluer than velvet was the night
Softer than satin was the light
From the stars....


それは可愛らしい、蚊の鳴くような小さな声だった。
極度の緊張の為か、その歌声は小さなため息のように細かく震えていたが
それでも彼女は頑張って原語で歌い続けた。

She wore blue velvet
Bluer than velvet were her eyes
Warmer than May her tender sighs
Love was ours....


彼女の心臓のドキドキ感がこちらにもダイレクトに伝わってくる。
それは、もしかしてその小さな歌声よりも心臓のバクバク音の方が大きいん
じゃないか、と思う程だった。

Ours, a love I held tightly
Feeling the rapture grow
Like a flame burning brightly
But when she left, gone was the glow of....


途中少し音程が上ずり、更に小声になった。今にも消え入りそうな声に
思わず" 頑張って、落ち着いて "とばかりに彼女を見上げ、
ゆっくりと頭で拍子を取りながら彼女に微笑んで見せた。

Blue velvet
But in my heart there'll always be
Precious and warm a memory
Thru' the years


彼女の顔はもう真っ赤だ。
少年はそんな彼女に少し驚きながらも嬉しそうに彼女を見つめていた。

…And I still can see blue velvet
Through my tears.



◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


彼女は何とか1コーラス歌い終わるとすぐに「○○○(少年の名)、この好きな
んだー、ふうん、知らなかったー」と素っ気無く言いながら落ちつかな気に
バッグの中を探り、リボンの付いた小振りの包みを取り出した。

…電気羊はまだその曲を弾き続けた。野次馬根性のなせる業…

「はい、これ。確か今日は誕生日だっけ?」と彼女はわざと何でも無い素振り
で事も無げに言う。少年は「うん、知ってたんだ?」と言うと包みを開けた。
中から出てきたのはブランド物の暖かそうなマフラーとウールの靴下だった。

…まだしぶとく素知らぬ顔をして曲の後奏を弾いている電気羊…

「わあ、ありがとう。大事にするね」と満面の笑みを浮かべて言った少年に
対し、彼女は更にぶっきらぼうにこう言い放った。

「この店で買い物したついでに、買っただけだからねっ。
どうせ○○○は3足1000円の靴下しか買った事ないんでしょ、
みっともないから、上げる」




◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆


もの凄いツンデレ振りだった。その言葉や態度とは裏腹に、彼女は少なくとも
店に予約を入れた一ヶ月以上も前から、" Blue Velvet "の曲と歌詞を覚え、
一生懸命練習したに相違ないのだ──── 少年はそれを知ってか知らずか、
尚もおっとりと嬉しそうに「うん、ありがとね」と繰り返していた。



未練がましくラストのカデンツを弾きながら、
危うく萌え死ぬかと思った。