2/06/2011

壁に耳あり、ピアノに目あり


人前で楽器を演奏する仕事、と一口に言ってもその形態は様々だ。

例えばソロでライブ、なんて時には演奏者の存在感はMAX状態だが
バーや飲食店等の"雰囲気モノ"等の場合は、例えソロであっても
"オラオルァ、聴けぇ!"とばかりにガツガツ弾く事は余り無い。

そういう仕事を長年こなしてゆくと、良くも悪くも知らず知らずの内に
技と云うか癖のようなものを色々と身に付けてゆくような気がする。
その中のひとつが「演奏者としての気配を消す」というものだ。

初めてその場(又は店)を訪れる人は、生演奏があると分かると
「へぇ」と興味を持つ人が多いが、同業者や音楽好きの御仁で無い限り
その好奇心は一時的なものである(またそう或るのが望ましいと思う)。

そして、演奏者は(もしかしたら自分だけなのかも知れないが)
少しづつ少しづつ、気配を消すべく弾く時がある。




その方法については今回は言及しないが、それは音符の数や全体を覆うノリや
音量にも左右される事は無い。例えば"You Don't Know~"の様な静かなBALLADも、
或いはDixieland Jazzか何かを大音量で賑やかに弾く時も、同じ事である。

演奏者の気配が薄れ行くに従い、客人達は生音の存在を感じつつも演奏者の
存在を少しづつ忘れてゆく。次第にリラックスし、やがては本来の目的である
「飲み、話し、あるいは読書し、物想いに耽る」という行為に還ってゆく。

その結果、どうなるか。
何時の間にか、その辺にあるテーブルや椅子や壁に架かった絵等と
同化する事に成功したピアノ弾きは、ピアノに向かい曲に集中しつつも、
その場に居合わせた客人達の様子をそっと仔細に観察する事が可能になる。


良く磨かれたピアノの筐体は、人が思う以上に辺りの様子を映し出す─────




バブル後期の頃のクリスマス・イブ。或る店に来た若いカップル。
男がディナーの後に彼女に渡した包みの中はリカちゃん人形だった。
凍りつく彼女、その後の重い空気…

夜更けにフラッと来た、笑顔の無い男と女。
暫く無言で相対した後、女が取り出した離婚届と指輪…

パッと見それと判らない、上等なスーツに身を固めた複数の男たち。
穏やかに酒を酌み交わしにこやかに会話を弾ませ続けてはいるが、
やがてテーブルの下で、何かがそっと手渡しで交換された。
新聞紙に包まれた物と茶封筒、あれは、一体…


窃視? いやいや此れは
ブルジョワジーならぬ「ピアノ弾きの秘かな愉しみ」だ。。




最後に。一度だけ、その「秘かな愉しみ」が破られた経験がある。

数年前、某国の在日本大使館内でのパーティに駆り出された。
どこかの国の偉そうな男達、着飾った女達で賑わうホール。
自分は徐々に気配を消し、そっと辺りの様子を窺った。

…と 暫くして、目立たない柱の影や大きなカーテンの裏で
自分と同様に気配を消したサングラス姿の数人の男が
其処此処にひっそりと佇んで居る事に気が付いた。

何故か前ボタンが開けられたままのスーツ。
その内の一人が向きを変えた時、一瞬見えた物。
それは、皮製のホルスターだった。

そう云えば昔、何かを読んだ曖昧な記憶がある。
確か大使館内は治外法権で、火気の使用は自由だった筈…
そう思った刹那、─────── その彼と、視線がカチリと合った。


流石、同じ穴の狢。
その時ばかりは、その後一心不乱にピアノ"だけ"に集中した。