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2/21/2011

Interplay 田村仁 写真展  ─ 灯ともし頃 ─

1月23日にエントリーした関係者でも何でもないけれど・その2。その後1月31日に
Interplay ロング・グッドバイ-浅川マキの世界-として新宿タワーレコードでのインストア・
イベントの様子をエントリーしたが、今回は二つめの写真展の様子を記してみようと思う。




田村仁 写真展 「灯ともし頃」
2011年2月10日(木)~2月15日(火) 於:新宿紀伊国屋画廊


紀伊国屋書店の画廊は、紀伊国屋ホールの入り口脇だった。マキさんの3枚目のLP
" MAKI LIVE "(72.03.05 TOCT-27043)や、その後の" 夜のカーニバル "(89.04.26
CT32-5421)などで当時の様子を想像するしか無い者にとって、ルピリエや紀伊国屋
ホールは少しだけ知っているようで、しかし遥かに遠い場所だ。。到着したのは夕刻
で、ホールで上演中の出し物の当日券を求める人々がそこかしこに並んでいた。

~入り口脇より。受付横には大き目のパネル、奥にポートレイト群が少し見える~


大きいパネルは所謂「広くイメージされる浅川マキ」その儘だ。計算された光と影の
コントラストの中に佇む「歌手・浅川マキ」。その切り口は、やはり首尾一貫している。

~係員の女性に撮影の意図を伝えると「パネルだけなら」と許可を頂いた~


● ● ● ● ●

興味深かったのは、数多く展示されていた四切程の大きさのポートレイト群だ。花園神社
でのライブ風景やルピリエ(と思う)でのショット、文芸座前で開場を待つ若者達・・・

70年初頭の様子を音源で偲ぶしか無かった者にとって、視覚でもライブの空気感や
彼女を取り巻いていた時代の香りを感じる事が出来るという事に、嬉しさを覚える。

それらに混じって、オフ・ショットも展示されていた。何処か大学でのライブ前後、
楽屋代わりに使われた部室で共演者と談笑するカット、恐らくは六本木にあった
マキさんの事務所兼自宅と思しき部屋の一室を、無造作に切り取った様なショット。

それらはステージ上で見せる、皆が思い浮かべる「浅川マキ」とは違う、
リラックスした様子のマキさんが笑顔で、チャーミングに収まっていた。
そんな彼女の表情から、田村 仁さんに寄せる信頼感を思う。

他にも厚めのファイル・ホルダーが展示室中央に置かれたテーブルの上に
ドンと置かれていて、それを開けて見ると更に夥しい数の写真が入れられていた。

思わず1ページ1ページじっくりと見始める。時間が飛ぶ様に過ぎる。
係の女性に「閉館の時間なので…」と申し訳無さそうに話し掛けられ、
ハッと頭を上げると展示室には誰も居なくなっていた。

● ● ● ● ●

少しばかりの名残惜しさを押さえながら、礼を告げ展示室を後にする。展示室の
真向かいには、70年代初頭~平成迄の様々な公演、ライブ告知のポスター、
雑誌の記事や歌詞の元原稿、等々が隙間無くびっしりと貼られていた。

~ごく一部だが、ガラス張りのショーケース越しに何枚かを撮らせて頂いた~

● ● ● ● ●

その中の一枚に目が留まる。マキさんのライブに行くと毎回
パンフレットを頂けるのだが、その原稿の直筆だ。タイトルに

浅川マキ・公式ホームページ
━━━━浅川マキの世界━━━━
『ちょっと長い関係のブルース』

とある。彼女のホームページが作られた経緯と心境が端正な字で
綴られている。その文章を此処で紹介させて頂く。(全文儘)


インターネットで「浅川マキを検索すると云う、そのような事が
実際にあるのですよ、」と聞き及んでも、わたしの暮らしのなか
では漠としていて遠い。知人だちのあいだでは、インターネット
その話題はもう何年も前から交わされていたし、この時代を行く
のに役立つ。瞬時に情報の入手が可能であれば、ビジネス、そ
して個人的なメールなどとなかなかに拡がりをみせているらしい。
そんないま、「浅川マキと云う歌手の公式ホームページ」を応援
してくれる素敵な方たちが創ってくださった。わたしのなかには、
ちょっぴり戸惑いと、それから奇妙な嬉しさがよぎっている。

               平成十年六月十五日 浅川マキ


…そう云えば、何時の頃だったか、ある年の大晦日ライブのパンフレットに
「HP内のメールでのお便りのコーナーを閉じさせて頂きます、今まで有難う」
と云う様な内容が書いてあった気がする。また彼女は実際に、数多く寄せられた
メールに目を通し、時には返信もしていた、と何処かで聞いた事を思い出した。

また、先程の彼女の文章の最後にはこう記されていた。

追伸、 画面に現れる写真群。長い月日を撮り続けて下さった田村 仁さんを想う。


● ● ● ● ●

──────それらをぼうっと眺めていると、周囲に居た人々が
一斉に動き出し、あっという間に辺りが賑やかになった。

その期待感に満ちたざわめきは、先程まで写真の中に居たルピリエや
紀伊国屋ホール、大学の講堂へとマキさんの唄を聴こうと意気揚々と
集う若者たちと見まごう程に、奇妙にオーバーラップして目に映った。

…否、どうやら紀伊国屋ホールの開場時刻らしい──────

沢山の写真や資料を飽かずに眺めるうちに、何時の間にか70年代へと
溶け込んでしまっていた自分の中の時間軸が、一瞬にして現在に引き戻
されてゆく。ガッカリ、と云う程では無いが、些か残念な心持ちが後を曳いた。


by 電気羊

1/31/2011

Interplay ロング・グッドバイ-浅川マキの世界-


「ロング・グッドバイ-浅川マキの世界-」&「浅川マキCD 紙ジャケ再発」リリース記念イベント
~ 2011年1月27日のレポートのようなもの ~


『 ロング・グッドバイ―浅川マキの世界 』 2011年 白夜書房夜の8時過ぎ───新宿タワーレコード、七階フロアーでは小さな
ステージを取り囲むようにして既に多くの人が立ち並んでいた。
丁度、自分が着いた頃にはゲストの山木幸三郎、亀淵友香、萩原信義、
各氏によるトークが淡々とした雰囲気で進行していた最中だった。

それぞれ浅川マキとは深い関わりを持たれた方々だ。トークでは
最初の出会いからレコーディングやツアーといった仕事を通しての
関係について、それから浅川マキの魅力について、また、ちょっと
した彼女の逸話やエピソードなどが語られていたと思う。

::

時折、亀淵さんがマキさんの私生活の話題について触れようとする度に
「大丈夫だよね?テラさん」と、傍らに控えている関係者の方に向って
伺うように聞いていたのを覚えている。テラさん───、もしかしたら
マキさんの初代プロデューサーだった寺本幸司さんの事だろうか?

そういえば浅川マキに対する正当な再評価の為に二十代、三十代の
若い世代に浅川マキを聴いてもらいたい───と、そのような寺本幸司
さんの現在のスタンスをネット上のCDレビューで読んだことがある。

寺本さんは日本で初めて出来たレコードの原盤制作会社「アビオン」
を創った人だ。以前に出版されたマキさんの本『幻の男たち』には
そう書いてある。アビオン制作第一号の歌手が浅川マキ本人だったという。
『幻の男たち』から少し引用してみる───

『 Long Good-bye 』 2枚組ベスト 2010年 TOCT-26998
” たった一枚のシングル盤のレコードを吹き込んだときから、
十何年のあいだ、それはつい先頃まで、わたしが歌手で
寺本幸司さんはプロデューサーであった。  ~中略~

ながいあいだが過ぎると、彼は咳払いする。それは歌手が
唄う前に声の調子を整えるのに似ていて、遠慮がちで小さい。
そんな彼の癖は、わたしが舞台に出て行って、これから唄おうと
するときに、鎮まり返っている客席の隅から聞こえてきた。

どんなに大きな会場のときでも不思議とこちらに伝わるのである。
マイクロフォンを片手に持ち俯いたままで、そんな彼の癖を、
わたしは一度も聞き逃したことはなかったと思う。 ”

~ ”プロデューサー” 浅川マキ 著 『 幻の男たち 』 1985年 講談社より ~


::

プロデューサーと歌手。そこには余人が入り込めない、とても強い絆や
パートナーシップがあるのだろう・・・思わずそんな事を考えてしまう。
話を元に戻そう。トークの次に亀淵、萩原両氏による演奏が始まった。

「ロング・グッドバイ-浅川マキの世界-」&「浅川マキCD 紙ジャケ再発」
リリース記念イベント・ミニライブ 2011年1月27日@新宿タワーレコード


亀淵友香(Vo)萩原信義(G) セットリスト

1. 「赤い橋」 作詞 北山修/ 作曲 山木幸三郎
2. 「あなたなしで」 作詩 浅川マキ/ 作曲 Williams
(原曲:オーティス・クレイ”Trying To Live My Life Without You”)
3. 「私のブギウギ」 作詞 成田ヒロシ/ 作曲 南正人

亀淵さんの声が深いブレスから解き放たれたように力強く響き渡ると、
萩原さんはそれを待っていたようにゆっくりとしなやかなストロークで
終止のコードを鳴らしていく。音の粒が際立っていてとても鮮やかだ。

つかの間のライブ空間───
観覧してる人たちから大きな拍手が沸き起こり、イベントは終了した。
スペースから人々が立ち去り、ややあってから再びショップの様相を
取り戻す店内。やがてマキさんの歌声がおもむろに店内のスピーカーから
聞こえて来る。それは『夜が明けたら』のとてもクールな歌声だった。

::

『 浅川マキの世界 』 1st album 1970年作品 / 2011年紙ジャケ再発 TOCT-27041僕は陳列されたCDを眺めながら、イベント・スペースの疎らになった
人影の方にふと目を遣った。と其処には関係者らしき人に囲まれ談笑
している萩原さんが居た。挨拶を受ける山木幸三郎さんの姿もあった。

それから僕は来たときと同じようにエレベーター・ホールへと向った。
満員となった一台をやり過ごし、次に来た空のエレベーターに乗る。
そこへ、山木幸三郎さん、スタッフらしき女性、それと背の高い紳士が
乗り込んで来た。三人はとても落ち着いた雰囲気で和やかに話をしている。

エレベーターから降りる間際、何故なのだろう?突然僕は、背の高い紳士の
顔を覗き見たくなった。そんな気配を察したのだろうか、不意にこちら側に
顔を向ける背の高い紳士。それはとても穏やかな表情だった。 
彼が咳払いをしたかどうかは覚えてない──────。



by gkz


※ 関連エントリー 関係者でも何でもないけれど・その2

12/28/2010

Interplay Ⅷ ~ こんな風に過ぎて行くのなら ~




2010年 12月26日(日) 27日(月) 28日(火)
開場19時 開演19時30分 新宿PIT INN


26日
金子マリ(Vo)5th Element Will【北京一(Vo,G)大西 真(B)石井為人(Key)    
松本照夫(Ds)岩田浩史(G)森園勝敏(G)】、坂田 明(Sax)トリオ
【黒田京子(P)水谷浩章(B)】セシル・モンロー(Ds)渋谷 毅(P)
長谷川きよし(Vo,G)小川美潮(Vo)大川俊司(B)

27日
渋谷 毅(P.Or)向井滋春(Tb)近藤等則(Electric Tp)植松孝夫、
本多俊之(Sax)後藤次利(B)安東 昇(B)セシル・モンロー(Ds)
萩原信義、池田洋一郎(G)白井幹夫(P)酒井俊(Vo)
【カルメン・マキ(Vo)太田惠資(Vn)】 金子マリ(Vo)

28日
山下洋輔(P)今田 勝(P)渋谷 毅 オーケストラ【峰 厚介(Ts)
松風鉱一(Sax,Fl)林 栄一(As)津上研太(Sax)松本 治(Tb)石渡明廣(G)
上村勝正(B)外山 明(Ds)】池畑潤二(Ds)下山 淳(G)野島健太郎(Key)
奈良敏博(B)亀淵友香(Vo)南 正人(Vo) 金子マリ(Vo)



【渋谷 毅 MCより】

「 浅川マキさんのに対する想いというのは皆、
ひとりひとり違っていてですね、違っているの。 
皆すごいんですよね。僕も違うし誰もが違う、
色濃いというか本当になんかすごいなと思って 」

───と、そんな渋谷毅さんのMCがなるほどと頷ける一夜になった。

::

前日の25日深夜。西荻のアケタの店でたまたま渋谷さんの話を
聞く機会があったのだが、「うーん、明日ねえ……緊張するんだよね」
とおっしゃっていたので、少しびっくりした。

12月26~28日の三日間、浅川マキさんと近しかった人たちの
ピットインでの公演。48人という大勢のミュージシャンたちと主催者の
狭間に立つ渋谷さんの気苦労は、さぞかし大変なものだったろう。



浅川マキという存在───
寺山修司プロデュースによるデビューに始まり、その後
時代を経ても尚 多くのミュージシャン達と共演し積み上げた
キャリア。改めて彼女のアルバムを聴けば聴く程、
とても大きな存在だとつくづく思う。


12月26日 セットリスト

金子マリ(Vo) 渋谷 毅(P) 
01.『 青い空 』  02.『 Hurry Change 』  03.『 Crazy She Calls Me 』  04.『 Lover Man 』

坂田明(Sax) 黒田京子(P) 水谷浩章(B) 
05.『 オオカミでたぞというた』  06.『死んだ男の 残したものは 』  07.『 Lonely Woman 』

小川美潮(Vo) 渋谷 毅(P) 
08.『 はじめて 』  09.『 4 to 3 』  10.『~不詳~』  11.『 窓 』

小川美潮(Vo) 金子マリ(Vo) 渋谷 毅(P) 
12.『 Dear Mr.Opyimist 』

長谷川きよし(Vo,G) 坂田 明(Sax)
13.『 赤い橋 』

長谷川きよし(Vo,G)
14.『 ふしあわせという名の猫 』  15.『 別れのサンバ 』
16.『 L'absent(いない人) 』 17.『 ダニー・ボーイ 』

金子マリ(Vo) 5th Element Will 
18.『~不詳~』  19.『 ゴロワーズを吸ったことがあるかい 』  20.『~不詳~
21.『~不詳~』 22.『 それはスポットライトではない 』  23.『~不詳~

~アンコール~

渋谷毅(P) 坂田 明(Vo) 
24.『 Shanghai(上海) 』



金子マリさんに始まり、坂田明さん、小川美潮さん...とそれぞれが
マキさんとの思い出を語りながら歌い、演奏し、進行していく公演。
その中でも長谷川きよしさんが淡々と語っていたのが印象的だった。


【長谷川きよし】

椅子に座ってギターを構えるその姿、舞台照明の光がハンチングに
遮られ影となり、サングラスの黒へと落ちる。
とても美しい翳……
どこかマキさんにも似た佇まいが、二人の深い繋がりを感じさせた。

長谷川きよしが語る浅川マキ───
ライブの間メモで書き留めていたので、それをここに記したいと思う。

::

【銀巴里での想い出 】

「 最初の出会いは銀巴里というシャンソンのライブハウス。
18歳の時に僕はそこで歌い始めるのですが、マキさんはもう、
もうそこで歌っていて、今でもマキさんを思い出すと聞こえてくる、
あの『夜が明けたら』をそこで初めて聴いて、本当に衝撃を受けました。

その頃、銀巴里ではマキさんもシャンソンを時々歌っていて
『小さなひなげしのように』なんかを歌っていたのをとてもよく覚えています 」


【 L'ABSENT~不在~ 】

「 僕の大好きなジルベール・ベコーという人の作った歌に
突然自分たちの目の前から居なくなってこの世を去ってしまった
友を惜しむ、悼む歌がありますのでそれをマキさんに歌います───


” ラプサン / L'ABSENT ”。日本語では『いない人』などという
タイトルがついてます。フランス語で” 不在 ”という意味の言葉です 」

::

そう言ってから歌いだすと一際、
翳が濃くなったような・・・
そんな気がした。


text and photo by gkz
 text and edit by 電気羊


※関連エントリー
InterplayⅠ銀巴里



※補足 ライブ報告はスケジュールの都合により初日(26日)のみです。スミマセン
※追加補足 当日の様子はこちらの方のBlogが詳しいです→ToyoBlog

11/28/2010

~ Interplay Ⅶ ~ 無響室 その4
Absence Makes the Heart Grow Founder


Interplay Ⅶ 無響室シリーズ───

4度目のエントリーということで、さすがにもういいだろ…
と言う声も聞こえてきそうですが・・・今回の拙文にて
終りにしたいと思います。もうしばらくお付き合いください。

::

《 for maria anechoic room version 》
渋谷慶一郎+evala


無響室という音の反響を吸収する特殊な空間に設置された24.4チャンネル
のサウンド・システム( 1周8個×3層からなる24のスピーカーと部屋の四隅に
設置したサブ・ウーハーによって構成 )は、コンピュータ・プログラムによって完全に
制御され、ストロボ・ライトの高速の明滅と共に音と光の充満する空間を構成する。
ICC ONLINE 公式ホームページより ~

東京オペラシティタワー / オープン・スペース
展示期間:2010年10月5日(火)―2011年2月27日(日)


【 In silence 】

音が止まった───
薄暗い室内に静寂が戻る。再び無音の無響室・・・心なしか自分の心臓の音、
心拍の刻みと流れる血流の音が聞こえてくるようだった。ひとけの無い、環境音すら
聞こえない外の世界から閉ざされたこの室内。自分の鼓動だけがそこには残っていた。

しばらくのあいだ係りの人を待つ。先程、雪が積もったときの静けさに似ている
と思った。今こうして佇んでいると、あの静まりかえった沈黙の宇宙 ── キューブリック
監督の映画 『 2001年宇宙の旅 / 2001 : A Space Odyssey 』 が頭をよぎる。

::


大気のある地球上においては無音の状況、完全に沈黙する状態と言えば生命の終りを
意味するだろうか。それは誰にでも待ち受けている逃れられない運命ではあるが ……
人間はいずれそのうち物音ひとつしなくなる。いずれそうなる事は誰もが知っている。

音の断絶した世界───閉じられた───永遠に続く暗闇───無            。
自分は少しおかしいかも知れない。無音の世界に身を置いたせいで自己の終わり、
臨死体験のような妄想じみた思考にいつのまにか囚われていたと思う。


【 Absence makes the heart grow founder 】

オペラシティの建物を出ると、そこにはいつもの、高層ビル群を背にした
西新宿の雑多な街並みがあった。不在であるが故に愛おしくなる───
誰の箴言だか分からないが、なるほどと思う。

喧騒が耳に飛び込んでくる───首都高を走る車の音、バスの振動、自転車の音、
通気孔から洩れる空調の音、絶え間なく流れる店の音楽、つんざくような電子音、音、音。

::


それらは無秩序で、ときに頭を悩ますほど無軌道であるのだけども、
そのときの自分にはこれら日常の音が生活感に溢れる愛すべき音に聞こえた。
そして、人の話す声・・・低い声や高い声、子供の声や嬌声、しわがれた声から
なまりのある声、外国語にいたるまで、聞こえてくる人の世の賑やかさにほっとした。


【 Inner city blues 】

それから西新宿から新宿の西口に向って歩く途中、ずっと、
ある曲とある曲がリピートを繰り返して頭の中を流れていた。

─── You know we've got to find a way.
To bring some lovin' here today ───


マーヴィン・ゲイの『 ホワッツ・ゴーイン・オン 』───
あのイントロに被さるように会話する声のせいだろう。
それと『 インナー・シティ・ブルース 』 ・・・アルバム最後の
リフレインする、例のフレーズの良さがようやく解った気がした。


::


text and photo by gkz



※ 関連エントリー~ Interplay Ⅶ ~無響室
その1  2  3 

11/21/2010

~ Interplay Ⅶ ~ 無響室 その3


《 for maria anechoic room version 》
渋谷慶一郎+evala


無響室という音の反響を吸収する特殊な空間に設置された24.4チャンネル
のサウンド・システム( 1周8個×3層からなる24のスピーカーと部屋の四隅に
設置したサブ・ウーハーによって構成 )は、コンピュータ・プログラムによって完全に
制御され、ストロボ・ライトの高速の明滅と共に音と光の充満する空間を構成する。
ICC ONLINE 公式ホームページより ~

東京オペラシティタワー / オープン・スペース
展示期間:2010年10月5日(火)―2011年2月27日(日)


さて、今回のInterplayについてはGKZ&DJ両氏によるレビューにより詳しく書かれているので
さして書く事も無いのだが、補足と言うよりは独りよがりな感想を手短に書いてみようと思う。

● ● ● ● ● ●

以前、音楽学の講義の最中に無響室の話になった事がある。その教授曰く…

「よく小説やマンガ等で静寂を表す擬態語で『シ~~~ン』と表す事が
あるけれど、僕は常々アレを不思議に思っていたんだ。静かな様子を音
を使って表すのか、と。しかし或る日無響室に入る機会があり、納得し
た。無響室に入って暫く経つと本当に『シ~~~ン』という”音”が聴
こえてきたよ。君達も無響室に入る機会があれば体験出来ると思う」


その話は妙に印象深く思ったが年月を経るに従っていつの間にかすっかり忘れていた。
が、今回のInterplayで無響室に行く事になった時、脳裏にこの話が浮かんだ。
本当にいつか聞いた例の『シ~~~ン』を体験出来るのだろうか。。

● ● ● ● ● ●

よく「都会の喧騒を離れ、静かな郊外の…」という表現を見聞きするが、元々それは
当てはまらないんじゃないかな、と思っていた。都会にずっと住み続けている者に
とっては海辺の宿では波が磯を洗う音が、山の中の宿では木々を揺らし通り抜ける
風の音が耳について全く眠れなかった事があるからだ。今回訪れた無響室の場所は
西新宿。本当の静寂が都会のど真ん中にあるという事に面白味を感じた。



その部屋は想像以上にずっと狭く感じられた。ガイドの方に「3分経ったら自動で扉が
開きます。それまで待てない場合、又は途中で耐えられなくなったら部屋の中央にある
このボタンを押して下さい。すぐに係の者が参ります」と言われ、一瞬ドキリとしたが
すぐに好奇心の方が勝り、一人部屋に残った。

ドアが音も無く閉じる。細微な電気ノイズをも遮断する為か照明も落とされ、文字通り
目の前の自分の手すら見えない真っ暗な状況になった。と途端に感じたのは圧倒的な
「社会との途絶感」だった。聴覚と視覚、五感の内の高々2つが無くなった位で何を
大袈裟な、と思われるかも知れないけれど、その2つがいきなり消え失せる衝撃は
想像以上の体験だった。その2つが欠損した状態に置かれたことは初めてだった。

無響室を訪れた日は企画をやっていて、無響室自体を堪能したと言うよりは
《for maria anechoic room version》という「無響室の為の曲」を否応無く
聞いた訳だが、結果として印象に残ったのはやはり曲の前後の僅かな間の
「無響状態」(厳密には室内に置かれた大小の無数のスピーカーの電気ノイズ
の音が聴こえたので言わば「擬似無響状態」だが)だった様に思う。

冒頭に書いた「シ~~~ン」の真偽についてだが、無響状態そのものの時間が
余りにも短かった為に残念ながら感じることは出来なかった。何時の日にかまた、
今度は純然たる無響状態を体験しに行ってみたいと思っている。



無響室を出、東京オペラシティを出ると夕闇が迫る時刻となっていた。
絶え間無い車の往来の音、無数の人々が営む生活音が一気に戻ってくる。
それらの騒音や喧騒は、何時にも増して心地良く感じられた。


by 電気羊



※ 関連エントリー~ Interplay Ⅶ ~無響室
その2
その4

11/14/2010

~Interplay Ⅶ~ 無響室 その2



《 for maria anechoic
room version 》
渋谷慶一郎+evala


無響室という音の反響を吸収する特殊な空間に設置された24.4チャンネル
のサウンド・システム( 1周8個×3層からなる24のスピーカーと部屋の四隅に
設置したサブ・ウーハーによって構成 )は、コンピュータ・プログラムによって完全に
制御され、ストロボ・ライトの高速の明滅と共に音と光の充満する空間を構成する。
ICC ONLINE 公式ホームページより

東京オペラシティタワー / オープン・スペース
展示期間:2010年10月5日(火)―2011年2月27日(日)



このような環境の中でどの様な「音」が聴こえるのか非常に興味が湧いた。
以前、当ブログ(2009.10.言葉が消えてゆく)にて失語症の作家
:小山清について記した事が脳裏に過ぎり期待と不安が…。

係りの女性(学芸員?)からの「この作品」についての簡単な説明・
注意事項を受けた後、中へと入りこの特殊な空間に約4分間身を起き、
いつもと変わらない、普段の空間に戻る。係りの女性(学芸員?)に
「この作品」について幾つかの質問している際に自分の質問内容に気がつく。

「この作品」を何かの「アトラクション」と無意識にすり替えしていた。
実際質問した内容は、この空間に人が入った時の「生理的なデーター」
類の内容だった事に気ずき、ある「状況下の自分」を思い出した。


:::::::::::::::::::::::::::


「ドクゥン、ドクゥン、ドドクゥン、ッドドクゥン」
自分の血液が流れる音が聞こえる。
勿論周りには色々な音が聞こえている筈なのだが。




「ドクゥン、ドクゥン、ドドクゥン、ッドドクゥン」
頭が更に愚鈍化していゆき、
徐々に視界がボヤケて平衡感覚が鈍って行く・・・?




「ドクゥン、ドクゥン、ドドクゥン、ッドドクゥン」
更に血液の流れる音が明確に聴こえる。
・・・どこから?




筆者他の人に比べるとアルコールに対し弱く、
人並みにアルコールを飲むとこうなります(笑)。


:::::::::::::::::::::::


音は音源から同心円的に広がり、音源からの距離が近い程大きく聴こえ
逆に距離が遠い程小さく聴こえます。人の耳(聴覚)は「音・声」等から
「自分との距離」を図り外界から危険性を察知し、更に言語を用いて
他者とのコミニケーションを取る為にあると云われております。

三半規管や卵形嚢(らんけいのう)と球形嚢(きゅうけいのう)からなる
「前庭感覚器」は中はリンパ液で満たされており、体が傾くとこのリンパ液が
揺れて三半規管の根元にある有毛細胞が刺激され、傾いている「方向を感知する」
という仕組みになっています。しかし、「この作品」では音の反響を吸収する
空間の中でほぼ聴覚を失われ、更に日常の光を遮りランダムで点灯する
ストロボライトのみによって視覚を狂わせる状況である。
様は自分の置かれている点(頭上とか右とか後ろ)を失うことだ。


「失う」とは、以前は所有・存在もしくは身についてていた状況から
逆の状況、言い換えれば先天性的ではなく後天性的によるものだと思います。
先程まで当然に聴こえ見えていたものが失われる。単純に考えただけでも恐怖です。

筆者は20歳の頃、怪我により右手の中指を負傷し通常の中指に比べ非常に短く
なってしまいました。この頃今迄とは違った楽器を始めてみようと考えていましたが、
なんの根拠もなくこの怪我によって違う楽器を始める事を諦めました。
(現在はその楽器やっていますので心配なく)はっきり言ってかなり絶望的になり、
自分では性格も少し変わり、日常の些細なこと(例えば、字を書く、箸を使う等)が
「ゼロ」になったような、いや全て「マイナス」から始まるように思えました。

当時の自分はこの様な考え方しか出来ない状況でしたが、
今考えると結局自分とどう向き合いどう前に進んで行くのか。

ジョン・ケージが無響室に入り「自分と音楽」について真剣に向った
結果、2つの音を聴き感銘を受け未来の音楽に不安を払拭し
「4:33」と云う作品がうまれたのではないだろうか




この作品のタイトル【for maria anechoic room version】が
作者の本質部分を解く鍵だと。作者が「失った」その絶望・虚無。
そして経過してゆく「時間」。それらを経て、幾度かの葛藤を経て
今の現状を受け入れ、もしくは時間と共に変化していった・・・。


無響室に響く筈の無い作者の「血液の流れる心拍音」と
「神経細胞のノイズ」を確かに聴いた。


by DJ



※ 関連エントリー~ Interplay Ⅶ ~無響室
その1
その3

10/31/2010

~ Interplay Ⅶ ~ 無響室  その1


~ Tokyo Opera City Tower ~

《 for maria anechoic room version 》
渋谷慶一郎+evala


無響室という音の反響を吸収する特殊な空間に設置された24.4チャンネル
のサウンド・システム( 1周8個×3層からなる24のスピーカーと部屋の四隅に
設置したサブ・ウーハーによって構成 )は、コンピュータ・プログラムによって完全に
制御され、ストロボ・ライトの高速の明滅と共に音と光の充満する空間を構成する。
ICC ONLINE 公式ホームページより ~

東京オペラシティタワー / オープン・スペース
展示期間:2010年10月5日(火)―2011年2月27日(日)


::

【 Introduction 】

無響室────

音が響かないように音を吸い込む材料で作られた特別な部屋だ。
声を出したり手を叩いても、そこでは音がほとんんど残響しないという・・・・・

そんな自然界ではなかなかありえないデッドな人工空間が都内にある。

初台駅にある東京オペラシティタワーの4階フロア───文化施設ICC
(NTTインターコミュニケーション)内の一角にある部屋がそうだ。

::

~ Inter Communication Center ~【 Open Space 2010 】

ICCとは先進的な芸術表現とコミュニケーション文化の可能性を
感じられるようにと、年間を通して多種多様な展示を行っているという。

アナヨルチーム。普段はおのおの個別に活動してるので久しぶりの顔合わせ……。
定例会というのか?オフ会?も兼ねて、今回は初台まで見学しに行くことになった。
尚、入場も無料と言う事なので貧乏ミュージシャンにはこれまた嬉しい限りだ。

オペラシティタワーに足を踏み入れると、平日とはいえさすがにオフィスや
店舗など多くのテナントが入っている複合施設だけある。昼時を過ぎた頃という
こともあってか、ビル内はビジネスマンや学生など大勢の人で賑わっていた。

エスカレーターとエレベーターを乗り継いで目的のICCに辿り着く。ここは一転して
人影もまばらで静かだ。受付を経てゆっくりと展示スペースを奥へと歩いていく───。

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~ Icc Entrance Lobby ~【 Anechoic chamber 】

無響室────、
なるほど、薄暗い室内に入ってみると無響の特性であるからにして、
外部の音がまったく聞こえずほぼ無音に近い。壁には反響を防ぐ為の
独特の加工が見える。それと…… あれ? スピーカーが組まれている???

係りの人によると、ちょうどこの無響室をテーマにした作品展示の期間中であるらしく、
厳密には室内は通常の無響の状況ではないと言う事だ。そういえば……部屋の入り口に
” 渋谷慶一郎+evala 《 for maria anechoic room version 》 2010 年 ” とあった。

どうやら今回はこの実験的作品を体験する事になる見込みだ。そして作品の性格上、
展示一回につき一人ずつの無響室への入室となると告げられた。・・・であるので、
来週以降のアナヨルでも引き続きこの無響室について、メンバー各個人のレビュー・
エントリーが続くことになるだろう。是非、皆さまにはお付き合い願いたいと思う。

それはそうと、その前に・・・さっきから係りの人の説明する声がどこか変わって聞こえる。
普通ではない。やはり無響室の中だからなのだろうか…、まったく響かない声なので異様だ。
立ってる所からの距離に対して声自体がずっと手前で、距離がとても近いように感じる。

この感じ…… 何かに似ていると思った。何だろう。何だっけ?これは確か…… 、
しろ、白、雪────そうか!真冬の積雪の日。あの、辺り一面を雪に囲まれた時の
状況と声の響き方が似ているのだ。 そうこう勝手に思ってるうちに係りの人は
部屋を退出していて、気がつけばいつの間にか一人きりで無響室に立っていた。
そうそう実験的音楽。 さて、一体どんな作品が始まるのだろう──── 。

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by gkz




~ Interplay Ⅶ ~ 無響室 その2 DJ 編はこちら



8/15/2010

Interplay ~Ⅴ~ 楽器の変遷は時代と共に…




武蔵野音楽大学 楽器博物館

今回のInterplayで此処を訪ねる為、アナヨル一同は江古田に集まった。
この施設は教職員・学生の教育・研究のために創設されたのだという。
世界各地から収集された楽器類は5000点以上、江古田キャンパス内に
展示されている楽器だけでも、3000種類以上もあるという。

気温34度。なのに50%を下回らない湿度。小さな商店街を抜け「暑い、暑い」と
ボヤきながら、やっとのことで大学入り口に辿り着いた。夏期休暇中ということもあり
学内は静まり返っている。受付にて見学の旨を伝え、博物館員による案内が始まった。
校内同様、博物館の中も見学者の気配は無い。思ったよりゆっくり見て廻れそうだ…

いきなり訪ねても無料で見学出来るが、お勧めは書面による事前の「見学申し込み」だ。
これをしておくと博物館員によるレクチャー付きで館内を見て回ることが出来る。
それから、アナヨル一行にはもう一つの"お目当て"もあった(詳細は後述にて)。
(※見学申し込み詳細のについては、レビューの最後に記載します)

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

ピアノ展示室にて
1階はピアノの展示室。クラヴィコードからチェンバロへ、やがてクリストフォリによる
ピアノフォルテの出現までの多用な変遷が 文字通り手に取るようにわかる。それらが
優に200台以上もあるだろうか、実際にそれらがずらりと居並ぶ様子は壮観だった。

冒頭の画像が何だか、お分かりになった方は居られるだろうか?実はこれはピアノの鍵盤だ。
建築家でもあった発明者の名を取って《ヤンコ・ピアノ(JANKO PIANO)》と言う。まるで
PCのキーボードの様な見た目は、ある種の美しさと滑稽さが共存しているようにも思えた。

他にも珍品と呼ぶべきピアノ、また名器とされるピアノが目を惹くが、如何せん数が多い。
脆く繊細な調度品のようなクラヴィコード。クララ・シューマンが使用したピアノ。
ナポレオンの婚礼の際にヴィクトリア女王が贈った、世界で唯一無二の絢爛たるピアノ…

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

"ヴィオラ・ダモーレ Viola d'amore"
武蔵野音楽大学楽器博物館の資料第一号である。昭和28年、当時の福井直弘学長が
学生たちの研究資料にする為にドイツより持ち帰った。~楽器博物館パンフレットより~


ヴィオラ・ダモーレとは直訳すると《愛のヴィオラ》。目を惹くのは頭部の飾り部分に
彫られている目隠しをされた女性の姿だ。これは16~17世紀の欧州において
広く用いられた、アレゴリー(寓意)と呼ばれる装飾のひとつだ。

ヴィオラ・ダモーレの《目隠しをした女性》とはつまり、有名なラテン語の格言──
Amor caecus estの寓意だ。 いわゆる「愛は盲目」ということらしい。

ところがで… そんな《愛のヴィオラ》には趣を異にする可能性もあるらしい。
諸説あるが《ムーア人のヴィオラ》或いは《異教徒のヴィオラ》を意味するとの話もある。

異名の由来──それは楽器の構造に関係がある。ヴィオラ・ダモーレには全部で14本の
弦があるが、その内、実際に弾くのは前面7本だけで、残りの弦は共鳴用としてあるのだ。
要するに奥にも同数7本の弦がある。このような弦の張り方により和声奏法が可能で、
弓奏楽器としては異例の複雑な共振を伴ったエコーのような残響音を得る事が出来るという。
インドのシタールを見たことあるならば、より分かり易いかも知れない。

つまりこの設計にはインドの弦楽器の影響があると指摘されているのだ。真偽はともかく、
当時の欧州以外の別の風土や文化、辺境から来た技術が介在してるのは間違いないだろう。

悠久の時を越えて聴こえてくるのは…一体どんな音色なのだろうか?
気高くも盲目的な愛の音色か…異教の蛮勇の音色か。 それとも・・・?

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

サックスの原点との出会い
…試しに尋ねてみると、事の他すぐに快諾を頂いた。
「吹いてみますか?」と館員が差し出す。それはすぐさま棚から下ろされ、当ブログ
3人衆の一人、DJの手に収まった。(基本的に女性からの誘いは断らない主義らしいw)

こうしてDJはアドルフ・サックス(Antoine-Joseph "Adolphe" Sax)が開発した
4つのサクソフォンの内、テナー・サクソフォンを試奏することとなった。


~サックス試奏による印象  byDJ~
・まず手に取った時、現行のテナー・サクソフォンとは重量感が異なり
非常に軽く感じられ(管の金属の厚さが薄く、2番管が細く思われた)、
ストラップが無いまま《とにかく落とさないように…》持ちながら思う。

・息を入れると抵抗感が強く感じられ、サブ・トーンのような音色が出た。
遠鳴りはせず、どちらかと言うと近鳴りしている様に思われる(整った音響
設備の部屋ではなく、資料室での感想として)。また確認はしなかったが
マウス・ピースは当時のものだろうか…?記憶ではリガチャー(リードと
マウスピースに装着する金具のもの、締金)は無かったように思う。また
紐らしきものでリードとマウスピースをグルグル巻きにしてあったので、
この辺りも抵抗感が強く感じられた要因と思われる。

・フィンガリングのポジションは現行のものと比べさほど変わらないが、
①オクターブ・キーは現行の物と違い、キーが2つ(左手のサムレストの
上と右サイド)オクターブ上の音域を出すキーと下の音域に戻るキーが
連動しておらず2つのキーに分離されていた(=結構面倒な印象)。

②キー自体の数が少なくHigh F#キーなどは付いておらず、また、右手の
小指で操作するキーにはローラーは付いておらず独立している(指を滑らせ
キーを操作するという感じでは無い)。また、左手小指で操作するテーブル
・キーもローラーがついておらず、個々に独立していた。

実用性は無く歴史的資料という感じは否めないのは、
現行の楽器に慣れてしまっているせいなのだろうか?
実用性、操作性の発展こそがこの楽器歴史なのであろう。



そう、前述の"我々のもう一つのお目当て"とは、サックス第一号の試奏だった。尚
資料室の展示順路が長方形の部屋を右回りに 木管(クラリネット、フルート)、
金管、部屋の真ん中にファゴットのコレクション、オーボエ、そして最後に
サクソフォンとなっていた点は非常に判りやすく丁寧な展示方法だと思う。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

埋もれていった楽器達の果てに…
人類が古くから楽器として利用していた《動物の角》。狩猟民族生活に於いて合図として
用いられたそれは、"戦いの為の道具"へと変化してゆく。やがて金属の加工技術の進歩と共に
素材は金属へ…その後も様々な紆余曲折を経、やがて現在のサックスへと至る迄の長い旅路は
『時代と共に消え忘れ去られ、埋もれていった楽器』の上に成り立っている・・・
有名無名の楽器職人達の、夏の暑さにも勝る、時代を超えた情熱を垣間見る思いがした。
(尚、詳細については後日改めて掲載の予定)

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

楽器同士の力関係?
整然と展示されている楽器を見て回るうち、ふと楽器同士の《力学》めいたものを感じた。
展示順路、その保存状態、配られたリーフレット(無料)。どれもピアノがメイン扱いだ。
次いで管弦楽器、打楽器と続いてゆく。「ピアノは楽器の王様」と誰が言ったのかは
知らないが、現在に於いてもクラシック音楽界にとってはピアノ様々…なのだろうか?
その一方、民族楽器の王様は何と言っても打楽器がメインだ。 この差は一体…?

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

館員によるレクチャー終了後、閉館時刻まで1時間半程の余裕を持ったつもりだったが
一同で館員の方を質問攻めにしてしまったせいか(館員の方、すみませんでした)、
すぐに閉館時刻となってしまった。恐ろしいまでの数の有名・無名の楽器を一気に見て
回ったためだろうか、チーム・アナヨルの頭の中は「お腹いっぱい」状態だった。

────最後にチラリと学内を通ったが、校内にいる学生はほんの僅かだった。ただ、
姿こそ見えないものの、校舎のそこかしこから様々な楽器を練習する音だけが谺していた。 

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

帰りに池袋駅西口で行われていた盆踊りをチラリ覗いてみた。夜になっても
一向に気温は下がらず…それでも老若男女問わず皆、楽しげに踊っている。
…やはり、民族楽器の王様は太鼓だ。鼓手が中央で、誇らしげに叩いていた。

・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・

歴史から消えていった楽器。残された者達が集い踊る 盆踊り。
盆踊りは亡者を供養するという目的がルーツだとも云われている。

終戦記念日直前に行った今回のInterplay。
何の規制も無く自由に表現・思考する事が出来る我々。一方、
65年目にして原爆犠牲者慰霊平和祈念式典に初来場した米関係者。

残された物・者は過去に学び、未来を想像し、行動し続ける。
それが発展・進化の一歩であるとふと感じる、真夏の宵だった。


text by DJ with gkz,電気羊  
illustration by gkz  
edit by 電気羊
special thanks Kiri


※ 武蔵野音楽大学/楽器博物館 見学申し込み詳細について
博物館員(音大卒業生)による1時間~1時間半程度の案内を無料で受けられる。
大学に電話で「案内付きで博物館を見学したい」と申し出、見学予定日時・代表者
の氏名・住所を言うと2、3日中に「見学申し込み用紙」が郵送にて送付される。
所定の内容(見学目的・団体名等を書く欄がある)を書き、折り返し送付する。

5/30/2010

Interplay ~Ⅳ~ 信仰と祈りの場に見る"音"たち

~東京ジャーミイ、増上寺を訪ねる旅~


ミュージシャンは音楽が好きだ。
音楽に付随してくるあらゆるエッセンス──ギア・ガジェット・メディアやファッションなどの
物質的なもの、カルチャーや文化とかロールモデル・代弁者とか社会的なもの、スタイルや価値観、
思想や哲学といった精神的なもの、etc,etc。だが、それにもまして音楽そのものが好きだ。

また ミュージシャンという生き物は得てして我侭な性分を持ち合わせている。
人によっては音楽を含め様々な『音』というものに敏感な一面を覗かせる場合に多々遭遇する。
例えば、音楽に集中する迄の間、空調や蛍光灯等の微細なノイズすら気に障る人も少なくないだろう。

その人なりの『心地よい音空間』というものは人の数だけ存在していて、
時として邪魔になる音は脳の中で取捨選択され、気にならなくなるよう制御されている。
つまり、それらによって神経過敏にならないよう、脳が勝手に自己調整をするのだ。

それが感覚が鈍くなる感じがして、なんだか嫌だ──と思う人は少数派ながら居るのだと思う。
耳の感度を保ちたいが故なのだろうか、欲求として"静けさ"を求めるときがある。
素材を活かした料理や薄味で勝負する和食の料理人の気概みたいなものだ。抑圧をよしとせず、
自由と解放を求めるが故に、それは得てして我侭やエゴという形で顕れるのかもしれない。

さて。以前テレビのドキュメンタリーで、パイプオルガンの修理工を取り上げていた。
ニューヨークのとある古い教会に設置されている古いパイプ・オルガン──────
そのオルガンは他の教会のそれと比べ、幾分小さい。それには理由があって、
設置された当時のNYは今のNYと比べてもっと街が静かだったからだという。
その話を日本に置き換えて考えてみると、例えば、寺の鐘がそうかも知れない。

そもそも日常生活の中で、古来我々が大きな音を必要とする時とは如何なる時だろう。
また音響技術が飛躍的に発展する前 産業革命以前の時代は、今日における『騒音』と
いう概念は無かったのかも?また産業革命以前の時代、一番大きな音は何だったのか?

今回のインタープレイは上記の文章を今回のフィールド・ワークのカギとし旅立った。
目指す地は代々木上原に在る東京ジャーミイ、そして芝の増上寺と定めた。

● ● ● ● ● ● ● ●

【 Tokyo Camii & Turkish Culture Center 】
~東京ジャーミイ、トルコ文化センター~

代々木上原にある、トルコ共和国の援助のもとに建立された日本最大のモスク。
澄み渡った青空に映える白亜の建物。普段見かける時よりいっそう大きく、白々と輝いて見える。
その前の路上に、一見してイスラム教徒と分かる異国の人々の姿。その瞬間から我々一行は、
普段の東京とは全くかけ離れたイスラームの世界へと踏み出した。

その日はG.W.だったためか優に200~300人近いの人々が集っていた。その熱気と活気は
宗教施設というよりは「町の大きな集会所」といった趣で。皆、楽しそうに談笑している。
その力強いエネルギーに圧倒されながら、我々は2Fのモスク入り口へと向かった────

2Fの様相は、我々の想像と違ったものだった。楽しげに嬌声を上げながら走り回る子供たち。
その様子を優しく見守る大人たち。そのうちモスク前は記念撮影大会さながらの様相を呈してきた。
デジカメを片手に、余所行きの服を着た我が子を写真に収める親御さんたちの姿。よく発表会等で
見かける風景の様な和やかな空気。その微笑ましさにつられ、我々も失礼して一枚だけ撮らせて頂いた。


…モスク内部に入り、床一面に敷き詰められた緑青の絨毯や美しい建物の装飾に目を奪われる。
異文化圏の我々にとっても、此処が厳粛な場所であり その宗教が持つ世界観の一端を、
自らの肉体をこのモスクに置くことにより感じることが出来た。やがて礼拝の時刻となり
スピーカーからコーランの力強い声が響き渡ると、モスク内部は更に神聖な場所と変容していった…

● ● ● ● ● ● ● ●

【 Zojoji 】
~浄土宗大本山 増上寺~

中世以降、徳川家の菩提寺となり徳川将軍15代のうち、6人が此処の霊廟に眠る地。
三解脱門(さんげだつもん)を抜け大殿(本堂)に入ると、丁度法要が始まった所だった。
僧侶が4、5人づつ両脇に座り、中央には高僧が座についている。こちらはスピーカーの類は
一切使わず、代わりに全員揃っての読経が香の焚き染められた建物内に響き渡っていた。

先程のコーランに比べ、単調なリズムと2度程度の音高しか持たない読経。それは一聴すると
例え様も無く退屈なものかもしれない。しかし 香の中でこの読経をずっと聴いていると、
一種のトランスめいた、アジア文化思想的な何かが仄かに立ち顕れる様な心持ちになった…

…法要を見学する前に、我々は鐘楼堂に立ち寄った。夕勤行に合わせ鐘が衝かれるのだ。
HPによると『その鐘の音は、時を告げるだけではなく、人を惑わす百八の煩悩を浄化し、
人々の心を深い安らぎへと導く六度の誘いでもあります
』とあり、また『江戸時代の川柳には
「今鳴るは芝(増上寺)か上野(寛永寺)か浅草(浅草寺)か」「江戸七分ほどは聞こえる芝の鐘」
「西国の果てまで響く芝の鐘」等と謳われ、江戸っ子鐘と親しまれています
』と記載されていた。



上の図にあるグラフは、増上寺の鐘の音を視覚化したものである。縦軸が音量(音圧レベル/DB)を横軸が時間(秒/second)を表す。 図を見ると始めのほうに大きな塊の部分ある。これは棒で鐘を衝く際の打撃音である。つまりゴォ~ンのゴの部分である。 その後に連続する波形が長く現れる。こちらは音の余韻部分に相当する、ォ~ンの部分。余韻は約30秒ほどかけてゆっくりと減衰していくのが分かる。余韻は耳で明確に聞き分けらるような音ではなかった。おそらく低周波の音だからだろう。それは体全体で振動を受けるような 種類の音だった。耳には聞こえないけど体で感じる音。
PCのソフトを通じて初めて分かった" 音 " の姿だった。



● ● ● ● ● ● ● ●

~終わりに~

宗教と芸術との密接な関係。
それは音楽のみならず絵画、彫刻、建築などが複雑に絡み合っている。

これらの芸術作品が宗教に与える影響とは────────
人間の五感を総動員しての" 演出効果 "なのかも知れない。

信仰を持った人々の真摯な祈りの姿と
彼等を庇護するかのように包み込む粛々とした祈りの場。
今回訪れた2箇所共、其処に偶然入り込んだ我々に対しても
暗黙の内にその世界の一端を垣間見せてくれた。



今回もまた 出発当初の目論見から随分とアウト感がするレポートとなってしまったが、
アナヨル流フィールド・ワークとは結論を求めるのではなく、知への探求であり
頭に思い描いた仮説・疑問をその現場に赴き体感し感じ取ることが目的だ。
今回のフィールド・ワークは音楽や音という物を民族学、宗教学、更には
天文学や数学的な角度からも考察出来た事が最大の収穫だったと思う。





※注※
本ページの中で、事実と異なった意見、若しくは関係各位の方々に対し失礼な表現が
在るかも知れませんが、しかしそれは我々が現場で感じた事柄を正直に悪意を持たず
書いている事を読者の方に理解を頂き、そして純粋に楽しんで読んで頂ければ幸いです。

12/27/2009

Interplay ~Ⅲ~ ラヂオ・デイズ【ラヂオの夜明け 《後編》】


《前編》はこちら

往年のラジオやその資料の数々。
展示してあるもの全てが文字通りセピア色に変化した懐かしい物で埋め尽くされている中、
あるコーナーの一つの機材だけが、異質な冷たい輝きを放つものがあった。

玉音盤である。

最新の機器によって窒素ガスを充填したケースで厳密な温度・湿度管理のもと
この愛宕で保管、展示されている。その機材が放つ、微かなブーンという音。
スチールと厚いガラスの鈍い光によって守られた玉音盤は、 その中に鎮座していた。

~玉音盤と玉音放送~
昭和天皇は8月14日のポツダム宣言受諾を決めて後、詔書を朗読してレコード盤に録音させ、
翌15日正午よりラジオ放送により国民に詔書の内容を広く告げることとした。
それまで宮中筋は天皇の肉声を放送する事は《 憚り(はばかり)あり 》として極端にこれを警戒し、
禁忌とされて慎重に回避されてきたが、それを覆す唯一の事例がこの玉音放送である。
玉音放送それ自体は法制上の効力は無いものの、天皇が敗戦の事実を直接国民に伝え、
これを諭旨するという意味では強い影響力を持っていた。

~玉音収録に使用された機材~
マイク………当時最も性能が良いとされていたマツダAベロシティ    
レコーダー…日本電気音響(後のデノン)製のDP-17-K可搬型円盤録音機
       昭和11年にドイツから輸入したものと同製のテレフンケン
       型円盤録音機(2台一組で使用)            .
レコード……日本電気音響 10インチセルロース1枚に3分しか録音出来
なかったため、全5分の玉音は前半・後半のに2つに分けて録音した。

天皇の発案により録音は2回行われ、放送には2回目のテイクが採用されたそうだ。
録音作業は皇居内に於いて行われた。詔書裁可後、午後11時半分頃から翌日1時すぎまで
かかって終了し、レコードは徳川義寛侍従により皇后宮職事務官室の軽金庫へ保管された。

~「 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ
   其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ 」~


殆どの国民にとって天皇の肉声を聴くのはこれが初めての機会であった為に、天皇の声
そのものや独特の節回し(天皇が自ら執り行う宮中祭祀の祝詞の節回しに起因するという)
に大層驚いたそうだ。また沖縄で玉音を聞いたアメリカ兵が日本人捕虜に「これは本当に
ヒロヒトの声か?」と訊ねたが、答えられる者は誰一人居なかったという。

この放送では「敗北」や「降伏」といった言葉を用いることができなかったため、
昭和天皇は敢えて明治天皇が三国干渉に屈服した際に述べた言葉(「堪ヘ難キヲ…」)
を繰り返したとされている。また当時は電力事情悪化のため間欠送電となっている地域も
あったが、この時は特別に全国で送電、国外では満州、朝鮮、台湾、中国、南方諸地域に
一斉に放送された。また、放送を巡ってこんな事件も勃発した・・・

~ 宮城事件 ~

当時より、この玉音は敗戦の象徴的事象として考えられてきた。鈴木貫太郎首相以下による御前会議の後も
陸軍の一部には徹底抗戦を唱え、放送用の録音レコードをクーデター的に奪取しようとする動きがあり
録音を行った社団法人日本放送協会の職員が拘束されたが失敗に終わったクーデター未遂事件である。

日本の降伏を阻止しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳中将を殺害、
師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠した。
しかし陸軍首脳部及び東部軍管区の説得に失敗した彼らは自殺もしくは逮捕され、
日本の降伏表明は当初の予定通り行われた。

玉音盤への収録が終わった午前0時過ぎ、宮城を退出しようとした下村宏情報局総裁及び放送協会職員など数名が、
坂下門付近において拘束された。彼らは兵士に銃を突き付けられ、付近の守衛室に監禁された。
また、玉音放送の実行を防ぐ為に内幸町の放送会館へも近衛歩兵第一連隊第一中隊が派遣された。
宮内省では電話線が切断され、皇宮警察の護衛官たちは武装解除された。玉音盤が宮内省内部に存在することを
知った古賀少佐は第二大隊北村信一大尉や佐藤好弘大尉らに捜索を命じている。

午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べている。
事件に関係した将校たちは明らかに当時の軍法及び刑法に違反する行為を行なったにもかかわらず、
敗戦時の混乱によってその罪は法廷で問われることがなかった。

この事件について、また敗戦や天皇については此処で何ら判断するものではないが、
当時のラジオが持つ力や影響力を示す一つの証として、記しておこうと思う。

また玉音盤の傍らに付随して置かれていた資料と共に
一つの小さなポータブルラジオがガラスケースに収められていた。見ると、
" 昭和天皇が玉音放送を聴いたラジオ アメリカ・RCAビクター製 5球スーパー "
と書かれている。録音作業中にはドイツ製や日本の機材を用いた天皇が、翌15日の
放送時にはアメリカ製のラジオで聞いていた、ということはある種の象徴の様に思えた。

このレコードは1年で劣化するレコードであり保存状態は悪く、
実際の再生は困難であるとされているらしい。。。。。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


・・・館内を観てあるくうち 展示されている資料も次第にラジオからテレビへ、
さらに衛星放送やハイビジョンヘと大きく進歩・発展していくのが手に取るに解る。
我々はその中の1つ、『ラジオ・ドラマ』の資料に興味を惹かれた。

~ ラジオドラマの黄金時代 ~
第二次大戦後、敗戦国日本は混乱の渦の中にあり 一般国民の生活は窮乏していた。
そんな時代の中、 荒廃した人々の心に灯火をともすように 受信機から流れるラジオドラマが
広く親しまれた。終戦直後の代表作には戦災浮浪児の生き方を示唆した『鐘の鳴る丘('47~
'50)』。あるいは庶民の日常を描いた日本版ソープオペラ『向う三軒両隣り』('47~'53)
などがある。 そもそもそれらはGHQ指導の下、占領政策の一環として 人心の掌握と民主主義
の浸透を目指す、という意図の下に製作されたものだった。だが、次第に政策としての色彩は
弱まり、 また多くの才能や人材に恵まれて日本独自のラジオドラマとして開花し成長していく。
"銭湯の女風呂が空になる"とまでいわれた『君の名は('52~'54)』。 男女が織りなすドラマは
戦争未亡人と退役軍人という枠を超えて当時の国民的関心事となったことでつとに有名。



思えば…30年近く前、FEN(現AFN)でラジオ・ドラマ(英語)が夕方放送されていた。
当時の自分たちには登場人物が何を喋っているのか、話の筋さえ全く理解出来なかったが、
会話の抑揚でなんとなく"今はこんな内容かな?"と想像し、それが結構楽しかった。時折、
スポーツ中継の番組に変わっていたが、それもアナウンサーの興奮度で"点が入った!" 等々、
それはそれ──適当な想像で愉しんでいた。

ラジオと比較するとテレビから入る情報の大半は映像ありきであり、
画像としてのイメージをそのまま記憶するだけになってしまう。膨大な量のデータが右脳から入って
そのまま記憶されるので考えたり想像したりすることがかえって少なくなるのかも知れない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~想像する事の愉しみ~
日本ではじめてのラジオ・ドラマ『炭鉱の中』(リチャード.ヒューズ原作、小山内薫訳・演出)
炭鉱の爆破事故で、炭鉱の中に閉じ込められた老人と若い男女が、迫りくる水や死の恐怖に
怯えながら救助を待つ、光のない世界が舞台…という作品である。 このラジオ・ドラマに
面白いエピソードがある。放送されるドラマの冒頭で、アナウンサーは次のように言ったそうだ──

「電灯の灯りを消して、真っ暗な中でお楽しみください」。

ドラマの舞台と同じ"暗闇"を作ることで臨場感を出し、暗闇にすることで人間の想像力を
更に活性化させる。そういった意図が製作者である小山内にあったと思われる。
そして…当時のスタッフが放送の行われた愛宕山から街を見下ろすと、、、
一軒、また一軒と家の明かりが消えていったそうだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~夢の実験場 ⇔ ラジオ~
声と効果音と音楽という音だけで創られるラジオドラマ。
そこには様々な新しい手法への試みも始められていた。
例えば、朗読とドラマの融合を探った小説風の番組であるとか、
世界文学を学者や評論家の解説付きでドラマ化したり。
あるいは大阪発の上方人情物でコメディに新機軸をもたらしたり…と、
ラジオの可能性を広げるべく日々挑戦が続けられたのだった。

その中には複数の登場人物をすべて二人の男女で演じる手法で後に長寿番組となった
森繁久彌と加藤道子の文芸ドラマ『日曜名作座('57~'08)』がある。 声色を巧みに
使い分け絶妙な間で語りかける森繁には大いに魅了された記憶がある──。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~放送劇作家たちの挑戦~
戦後ラジオドラマの黄金期を作り上げた 才能のひとつに放送劇作家の西澤實という人がいる。
音源はおろか台本さえも現存しないそうだが、 子供向け番組から世界の名作シリーズに
至るまで 、およそ5000本もの脚本を書いたといわれる。 ある時彼は大胆にも口がきけない
男が主人公のラジオドラマを 作った事があるそうだ。当然、主役はセリフなし・・・ 笛で
コミュニケーションする、という設定で 音のみで感情や意思を伝えるという野心作だ。

何だか想像するだけでわくわくする、是非聴いてみたいものだ。
そして極めつけは──────

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~架空実況放送シリーズ~
戦国時代の関が原の合戦や豪華客船タイタニック号の悲劇的な沈没の様子、
果ては未来の世界へとテーマや舞台が縦横無尽に飛び、その歴史的記念となる
一日を実況中継風にドラマで再現してみせたという・・・

ベートーベンの葬式の中継放送、なんてテーマも扱ったらしい。

スポーツ中継のアナウンサーを起用し 音響効果にも専門家を配して力を入れたので、
相当に 臨場感溢れたリアル?な放送となったようだ。 中には現実の中継と勘違いした
聴者からの電話問い合わせもあったという。 かのオーソン・ウェルズの『火星人襲来』を
思わせる話で、スタッフ達の思わずニヤリとする様を想像するだけでも楽しい。


ラジオならではの音の特性を生かしたアイデアや
壮大であり異色な演出の発想。

ラジオドラマの黄金時代とは、まさに夢の実験場。
そう ──── 夢そのもののような時間だったのかも知れない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


閉館時間を告げるアナウンスが館内に流れ始める。気がつけば外の様子も大分暗くなっていた。
まるで人の世から少しばかり離れた空間、別次元を少しだけ散歩してきたといったら言い過ぎか・・・
ひと通りは観て回れたし、ここは一旦切り上げることにして出口に向かって階段を下りていった。

先程のエントランス付近に設置された大きなモニター画面──
その前で一人の年配の男性が立っているのが見えた。

齢八十は軽く越えていそうな御仁である。閉館時間も気にせず、ただひたすらに
じっと映像を見つめているようだ。流れている映像は何処かの国のサッカー中継の
ようだった。しばらくの間、我々はその御仁の横に並んでそれを観た。

やや間をおいて一瞬その横顔を見てみた。
感情の起伏のようなものは窺えない。
ただ何処か、超然とした眼差しがそこにはあった。

やがて我々は出口に向かって歩き出した。

振り返るとその御仁は変わらず、佇んだまま・・・


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~終わりに~
玉音盤や受信機。それからとても放送機材とは思えない
装甲車の様なTVカメラ(かっこイイ!)等、好奇心が掻き立てられる資料ばかりであった。
同時に私たちと音楽の接点、過ぎ去っていった昭和の文化、或いは
ジャズ・エイジに対する憧憬 etc・・・を確認できた晩秋の終日であった。

今回分のINTERPLAYは何かしらの結論を出すのが目的ではなかった。
フィールド・ワークの大きな流れの一環として、または今後の布石として、
"ラジオ"をテーマとして取り上げる事によってアナヨルの今後に広がりを持たせる・・・
あくまでも企画の一部、序章編として続きはこれから乞うご期待──
と、 そんな感じで行けたらと思っている。

これからも折に触れてラジオやテレビなどに纏わる
フィールドワークやレビューを続けていきたい…そう思います。



11/29/2009

Interplay ~Ⅲ~ ラヂオ・デイズ【ラヂオの夜明け 《前編》】



~「アー、アー。聞こえますか。JOAK、ジェーィ、オーゥ、エーィ、ケーィ、
こちらは東京放送局であります。こんにち只今より、放送を開始致します」~



1925(大正14)年3月22日 朝9時30分、日本におけるラジオ放送の第一声が
このマイクから流れた。これはウエスタン373ダブルボタンマイクロフォンで
アメリカ・ウエスタン社製。同年7月 愛宕山にて本放送が開始された。

~ひとと音楽との出会い~
一般的に"人生初の音楽との出会い"は、まずもって聴くことから始まるのだと思う。
また記録媒体としての音楽のフォーマットは古くはSPからLP、TAPE、CD等々
時代によって様々な変遷を遂げてきた。それらを楽しむ方法も、町の個人商店に始まり
大手チェーン店、レンタルショップなどの店舗や雑誌、そしてMTVに代表される音楽
情報番組などの時代を経て、今やi-Podやネット上でのダウンロードへ…と広く多様な
文化として今日に至っている。それらを大きく総称して"音楽メディア"と呼ぶとして、
そもそもの出発点 つまり音楽が媒体として初めて形となって登場した原点は
"ラジオ"なのではないか…と考えた。


~"放送のふるさと"へ~
文化としての音楽、社会の中での音楽を考える過程において"音楽を聴く"という行為の
出発地点、インフラ、メディアの黎明期としてのラジオが担った大きな役割を考えてみたい。
そこで今回のフィールド・ワークは港区愛宕山にある「NHK放送博物館」を訪れてみることにした

NHK放送博物館(NHK Museum of Broadcasting)

日本放送協会が運営する放送に関する博物館。
NHK発祥の地である愛宕山に世界初の放送専門博物館として1956年に開館。
開館当時は愛宕山放送局の局舎を使用していた。現在の建物は1968年に 新築
されたもの。玉音盤など約2万件の放送資料と約6,500点の放送関係図書を所蔵
している。館内にはそれぞれの時代のラジオ受信機やテレビ受像機が展示され、
それらの動態保存(実際に動作する状態で保存・展示)にも努めている。



とある日曜日。午後の遅い時間だったせいか十一月の曇天の気候のせいかは分からないが、
休日だというのに博物館周辺や館内は人もまばらで閑散とした雰囲気に包まれていた。
エントランス付近には設置された大きなモニター画面──
周囲に立てられた幟には"デジタル・ハイビジョン…"と書かれてあるのが見て取れる。
公共の施設のようなしっかりとした造りの建物。そう、古い図書館といった感じか。
内部は何層かに分けて展示室が配置されているらしく意外に奥行はありそうだ。

階段を上り幾つかの展示スペースを観て回り、ラジオ放送機具の一角に辿り着いた。
其処は暗く調光された空間になっていて、所々に配された薄ぼんやりとしたスポットライト
の先には、まさしく往年の"ラヂオ"の筐体が──その木製の輪郭やマイクの金属部分の
鈍い輝きが浮かび上がって見えた。


静かに並ぶ歴代のラジオ受信機たち。歩みを進めるに従い、ごく初期の鉱石式にはじまり
真空管、そしてトランジスタへと、こうして見ると各時代の先端技術の変遷がよく解かる。
時代毎の放送機具や受信機の変遷とは、つまり技術の進歩やメディアの発展の証とも言えるし、
さらには国民生活の所得や経済の変遷・発展の表れでもある──
そんな説明書きのパネルをしばし眺めた。


・・・・・・・・・・・・・・


~1925年へと思いを巡らす~
膨大な放送機材・放送資料を観ていくうちに1つの疑問が浮かんだ。
『1925年とは、どんな年だったのだろう?』

アメリカは第一次世界大戦が終了し、その恩恵を受けた結果としてアメリカの株式市場が急騰。
自動車・航空・通信産業のみならず、芸術や建築等のリベラル・アートも活性化した年であり
1929年の株式市場の暴落までを称して"ジャズ・エイジ、ローリング・トゥエンティーズ"
等と呼ばれる時代であった。例えば ウディ・アレンの自伝的作品/映画『ラジオ・デイズ』には
既に最先端で先進的だった大都市ニューヨークでのその頃の市民生活の様式が描かれていて、
作品中にはラジオと映画に夢躍らせたアレン少年が登場する。

『ラジオ・デイズ』中でも特に印象的だったのは、SPなどのアナログ音源や蓄音機ですら
庶民にとって高嶺の花だった時代に、もっとも広く人々に親しまれて音楽と庶民の架け橋・
パイプ役となったのはラジオに他ならなかった…という点だ。

居間に置かれたラジオから流れてくるグレン・ミラーやベニー・グッドマンの公開生放送──
それらを家族揃って聴き、時に耳慣れない音楽に耳をそば立てる…といった光景は、
従来の上流階級の舞踏会や豪華なホールでのコンサートであるとか、夜の酒場や社交に集う大人だけの、
ある意味閉ざされた世界とは別次元の聴衆の創出の事実を示唆していると思うからだ。


さて 日本に目を向けてみよう。好景気に沸いたアメリカの影響を受けたわが国では
大戦の特需景気で、繊維・造船・製鉄等の製造業や海運業が大いに発展した。
好景気を追い風に東京や大阪などの大都市では百貨店が賑々しく営業し、
レコード・蓄音機・ラジオ等も輸入量が激増した頃である。

それらは幼児期における音楽教育にも変化をもたらした。特に1925年7月に放送されていた
ラジオの音楽プログラム"子供の時間"はある意味画期的だったのかも知れない。
当時、多くの初等科に於ける音楽教育とは"唱歌を歌う事"が中心で、洋楽を中心とした
"音楽鑑賞"という教育形態がどれ程大きな役割を担ったものであったかは
想像に難くないだろう。

また同時代の中国では軍閥が割拠し、列強による植民地支配も行われていた。
中でも上海ではナイトクラブ・ショービジネスが繁栄していた時期でもあり、斎藤 憐の著作による戯曲 
「上海バンスキング」のアイデアになった事も付け加えたいと思う。

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・・・暫らくして、人の気配を感じた。

我々のすぐ後ろを30代前半と思しき一組の男女が通りすがる。 現代風なファッションに身を包んだ女性は、いかにも興味薄な表情で辺りを眺めている。対する男性の方も何かの目的があって来たようには見えず、時折携帯電話を覗き込んでいた。      

何処かしら遊歩の帰りに偶然寄ったのだろうか?            
雰囲気から察するに、二人で一緒に居ること自体が目的のようで 見物もそこそこに足早に順路を急ぐ二人。なるほど…此処はデートコースにはあまり似つかわしくないのかも知れない。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 以下、後編へ続く ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今回のフィールド・ワークは長編となったため、一旦 ここまでにさせて頂こうと思う。
【ラヂオの夜明け ≪後編≫】では所蔵の玉音盤、ラジオドラマについての考察をメインにお送り致します。

《後編》はこちら

8/30/2009

Interplay ~Ⅱ~ 死んだ歴史ののこしたものは?

   ◆ ◆ ◇ フィールド・ワーク覚書 ◇ ◆ ◆


───── 秩序と無秩序の狭間で ─────

先日、首都圏から一時間くらい離れた郊外に行く機会があった。
車窓から広がる、パッと見平坦で凡庸な、田舎の景色。
なぜかふと この田園風景の中に秩序らしきものがあるような気がした。

小川や雑木林、大小の野池や水田。そして点在する集落。それらを
"全て遠い古からの農政学に基づく絶妙な配置である"と仮定して眺めると
何でもない風景が類い稀な造形美のようにも見え、なぜか嬉しい気持ちになった。

東京へと戻る際、その美しさが次第に消え失せてゆくことに気付く。
代わりに立ち現われて来るのは 雑然とした生活の匂いだ。
雑然とした景観。密集した家屋は、際限無く増殖し続ける生き物のよう…
また、それらと墓石にも似た巨大なビル群との関係性は
"多様性"という名のカオスのようにも、思えた。

───── 様々な価値観が交錯する地、上野へ ─────

徳川家の菩提寺が建ち並ぶ慰霊の地、彰義隊と官軍が争った史跡としての空間。
200年余の歴史を封印するかのように立ち聳える南洲公の銅像。
新政府の守り神・門番としての象徴のようでもある。

江戸と明治。幕府と政府。時代と共に入れ替わる権力。
封建制と国民国家や家父長制や天皇制、etc.…異なる時代、異なる価値観。

近代国家建設の時代、日本の西欧化の動き。
そんな時代に設計された、音楽と美術における大いなる青写真としての上野。
新しい価値観やリベラルアート/芸術の勃興の地となるべく創設されたに違いない。

日本に本格的に輸入された初期の西欧文化。その音楽や美術の黎明期を理解し、
先人たちの思考やスピリットが交錯した道程を探ることが出来ればと思い
今回の"Interplay"は上野公園にターゲットを絞ってみる事にした。

● ● ● ● ●




午後の早い時刻に、上野公園に到着。

秩序だった空間────

庶民感覚や情緒漂う千駄木や浅草、
御徒町といった周辺地域とは
全く違う趣の場所だ。

この日の空は久しぶりに
夏の日差しを取り戻している。

公園の噴水近くでは
思い思いに夏を満喫している家族連れや
カップルなどで賑わっていた。




● ● ● ● ●

・・・・・ 旧東京音楽学校奏楽堂 ・・・・・
明治23年に創建された、日本最古の木造の洋式音楽ホール。文部技官山口半六と
久留正道の設計により、東京芸術大学音楽学部の前身である東京音楽学校の本館として建設された。




日本初のオーディトリウムとしての
役割を果たしてきた奏楽堂には
音楽ホールとしては珍しく
ステージの左右と背面に窓が配されている。

客席に差し込む自然光が
何とも新鮮で心地よい。

この日は東京芸術大学学生・院生による
30分程度の小演奏会が催されていた。




窓の外から漏れ聞こえてくるのは蝉の大合唱だ。
その中で、パイプオルガンによって演奏されてゆくバロック音楽。
20代そこそこの若い女学生と満120歳のホールとが創り出す音色。

…この音楽を愉しむ風景は、一世紀以上前からずっと変わらないのだ…
そんな事を思いながら彼女らの瑞々しい演奏を目を閉じ聴いているうちに 一瞬、
自分が何者で今がいつの時代なのかが分からなくなるような錯覚を覚えた。

● ● ● ● ●

・・・・・ 東京都美術館 ・・・・・
北九州の石炭王と言われた佐藤慶太郎から東京府に100万円の寄付により 大正15年(1926)5月1日に開館した。
旧美術館の老朽化と手狭さ、機能低下を解消するために昭和50年に建て直された現建物は、前川國男によるもの。



各所にある窓が印象的な、赤レンガ造りのモダンなデザイン。 随所に思索スペースとも思える
ちょっとした空間が確保されており、 機能性一辺倒ではない美学が窺える。
この建物の中では常時大小幾つもの美術展が独立して行われている。
今回見学した美術展は"反戦争・平和"をテーマに、数多くの一般者が出展している展覧会だ。

300点以上はあると思われる様々な静物画、人物画、風景画たち…
この様な趣旨の展覧会なので、題材も戦争に沿ったものかな、と想像していた。
しかし意外なことに、そのような作品は全体の1~2割程度だった。

多くの自然体な作品を観ていくうちに、 "声高に平和や反戦を叫ぶモティーフを
書かずとも個人が自由に創作していける事自体が 平和の形なのだ。
この自由な作風こそが平和な時代の証しなのだな"と気が付かされた。

この展覧会の中に、滝平 ニ郎氏を追悼するコーナーが設けられていた。
幼い頃に買って貰った絵本「モチモチの木」を擦り切れるまで幾度も読み返した事を思い出した。
彼もまたこの美術展と関わりがあったのだな、と暫し感慨に耽りながら作品を録らせて戴いた。

● ● ● ● ●

───── "ワン・レイニー・ナイト・イン・トウキョウ" 再び? ─────



美術館を出ると、既に陽は傾きかけていた。

何だか怪しげな空模様だね、と話しているうちに
空から叩きつけられるように落ちてきた大粒の雨。
みるみるうちにひどい土砂降りになった。

日没まで上野公園を散策する予定だったが、
止む無く車で上野を離れる。

────前回のInterplay同様、
          また雨に降られてしまった────



帰りに立ち寄った定食屋。
皆 言葉少なに食事を摂りながら、店内に点けられていたTVをぼんやりと眺める。
画面では核兵器削減を唱えたオバマ発言を元に、戦争に因んだ話が取り上げられていた。

世界各地での様々なインタビューの中、米国人の発言が印象に残った。
アメリカの戦中世代は若い世代に原爆を投下した事実を伝えてはいない…


夕立の雨が黒く見えたのは 気のせいだろうか?


───── 思いを伝える、ということ ─────

"死んだ歴史の 残したものは
輝く今日と 又来るあした
他には何も 残っていない
他には何も 残っていない"

「死んだ男の残したものは」より抜粋 谷川俊太郎作詞・武満徹作曲


YouTubeの中で、初音ミクが歌っている。
反戦歌をミクが歌うという構図は 一見するとかなりシュールな様にも思えるが、
思い返してみると日本を代表するアニメーション監督、大友克洋、宮崎駿、押井守等の
海外で評価の高い諸作品の中にも放射能・核・最終戦争などのメタファーが
数多く含まれている事に気付かされる。

この日見てきた美術展の自由な作品群も、ミクが歌う反戦歌も、アニメも、
"昔日本で何が起こったのか"を伝える一つの方法かもしれないな、と思う。


"輝く今日と 又来るあした"に思いを伝える手段は、幾らでもあるのだ。





【 text by DJ with gkz,電気羊   photo by gkz   edit by 電気羊】

5/31/2009

~InterplayⅠ~ ワン・レイニー・ナイト・イン・トウキョウ



─────マウスを捨てよ、街へ出よう─────


拙ブログを初めて三月余り。
気が付けばパソコン前で過ごす時間が多くなっていた。
資料集め、構想、レイアウト、執筆、エトセトラ、エトセトラ・・・
レビューコンテンツが中心の素人ブログとは言え、
気持ちだけは一丁前にに気負い過ぎていたのかも知れない。
そんな少しばかりの反省を込めて、今回は「フィールド・ワーク」と洒落込み
外の空気を吸ってみようと思い立った。

─────失われた時を求めて──────

東京に住んで、もう何十年経つだろう。
幼い頃に遊んだ空き地には綺麗なビルが建ち、
ふと見返すと学生時代に馴染み深かった行きつけの場所は
次第に店を畳み、淋しい思いをする事が次第に多くなってきた。

見慣れた街の、知らない店。
そこに集い戯れる、自分たちとは違う価値観を持った若者たち。
そんな「街のニューカマー」と自分との軋轢を感じることが少なくない一方、
その前の世代から見た自分たちも又、「ニューカマー」であることに変わりは無い。

自分達の知らない、懐かしい時代へ。
その当時「新しい音楽」を発信していた場所へ行ってみよう。
場所は赤坂「ラテン・クオーター」、銀座「銀巴里」、浅草「浅草六区」の3ヵ所に決めた。



●●●●●赤坂/ラテン・クォーター跡地●●●●●

ラテン・クォーター:1959-1989。かつてホテル・ニュージャパン地下に存在した、日本有数のナイトクラブ。
店名は"カルチェ・ラタン"の英訳。"カルチェ"は「地区」、"ラタン"とは「ラテン語」のことであり、
「ラテン語を話す学生が集まる地区=教養が高い人が集まる場所」の意味を配したこのナイト・クラブは
国際的社交場として各界の大立者たちが集い、音楽と酒に興じ、また様々な取引なども行われていたらしい。
ステージ上にはナット・キング・コールやサッチモを始め、現在では考えられない程の超一流アーティストが出演していた。
出演交渉役は後の「キョードー東京」の取締役、永島達司氏。「ビートルズを日本に呼んだ男」として知られる男である。
ホテルニュージャパンが1982年2月8日に火災事件を起こした後も営業を続けたが、7年後の年5月27日に閉店。



自分の中では"ホテル火災が大事件としてTVで扱われた"という遠い記憶があるばかりの場所。精々、子供の頃に読んだプロレス漫画を通して"力道山が刺殺された場所らしい"という覚えがある程度だ。

知り合いの60代の方々に当時の様子を尋ねてみたら、皆懐かしそうに目を細めながら「いやあ、本当に豪華な場所でねぇ」「チャージが高くてね…学生の身分だったから、カウンターの隅にやっと座らせて貰ってナットを観たよ」と当時を懐かしげに振り返ってくれた。

例の火災跡の廃墟は何度か見かけたが、今はどうなっているのか…

…その場所の跡地には、外資系の保険会社のビルが建っていた。雨模様の中 その高さを知らしめるかの如く最上階の辺りは霧に覆われ、聳え立つ巨大なビル…いきなり肩透かしを喰らったような、何ともいえない戸惑いを覚える。そう、前述の事々の残滓すら、微塵も感じられなかったからだ。代わりに感じたのは《時代の変遷のスピード》と《この場所には今、音楽が求められていない事》…

一応ビルの人に尋ねてはみたものの、返って来た答えは
「当時を偲ぶものは一切御座いません」だった。

…半ば途方に暮れ佇んでいると、
敷地横の細い坂道から女学生達が三々五々降りて来て横を通りかかった。蔦の絡まる石垣を見つつ息を切らしながら坂道を登りきると、高等学校が見える。「時代が変わっても、学問は変わらず求められるモノだな…」と思うと同時に高校時代に学んだ一文が頭を横切った。

…奢れる者も久しからず、たた春の夜の夢の如し…



●●●●●銀座/銀巴里跡地●●●●●

銀巴里:1951-1990。 日本初のシャンソン喫茶店。 「日本シャンソンの故郷」とも云われたこの店には常にリベラルな空気と創造する活気 に満ち溢れていたという。 美輪明宏、戸川昌子、クミコ、金子由香利、戸山英二、大木康子ら錚々たる歌手を多数輩出し、三島由紀夫、なかにし礼、吉行淳之介、寺山修司、中原淳一らが集い演出に尽力。 中でも三輪明宏が17歳の時に銀巴里と専属契約し歌手デビューしたことは有名。 1957年には「メケ・メケ」が一躍大ヒットし、彼のスタイルはマスコミから"神武以来の美少年"、"シスターボーイ"と評され、「天上界の美」と三島由紀夫が絶賛した美貌で一世を風靡した。 1990年、ビルの取り壊しと共に姿を消したが、その跡地には石碑が立てられている。         




終戦後の銀座…といえば、米軍が主体の連合国軍が接収した帝国ホテルを始め、アメリカ文化がどっと入り込んできた時代のイメージがある。
しかし、その当時に出来たこの店の内装や雰囲気はそれとは全く別モノだったらしいこと等を考えると、当時のクリエイター達の独自な視点や何者にも囚われない自由な発想力の迸りを垣間見る思いがする。
その後も銀座には多くのシャンソニエが在ったが、銀巴里はその中の"殿堂"としていつも存在し、銀巴里無き後はその数も減る一方だ。

小雨模様の歩行者天国をすり抜け、銀巴里跡地へ到着した。現在は高級万年筆メーカーのショップへと変貌しているその場所に、うっかりすると見落としてしまう程の小さい石碑が設置されていた。
銀座の中でも7丁目界隈は まだ当時のゆったりしたイメージを微かに留めているような気がするが、それでもリニューアルした資生堂や天国を始め、当時とは様子が変わっているのだろう。

石碑を撮影していると、銀ブラを楽しむ通行人が「?」といった顔をしつつも、そ知らぬ顔で通り過ぎて行く。2009年の銀巴里の現在進行形である小さな石碑を見ながら、在りし日の若者達の情熱を石碑の何処かに
感じ取ろうとした。。。


…遥かな昔に 去りし人の歌
今日も街に流る面影知らずに 歌われる歌よ…

(「詩人の魂」より一部抜粋)



●●●●●浅草/浅草6区●●●●●

明治時代に公園化された浅草公園。その中でも一番賑わった地域を人は「浅草六区」と呼び、親しんだと云う。
古くは江戸時代の仲見世が発展したこの地域は演芸場や芝居小屋が立ち並び、活況を呈した。震災後も興行界
の要として賑わい、戦後も庶民に様々な歓楽を供してきたが、高度経済成長と共にその勢いは衰えてしまった。


最終目的地をここに選んだ時、まず「どうして浅草が大衆芸能が盛んであった事」を考えてみた。東京15区を制定した明治11年当時は人口数も現在と比べ少なく、また交通機関等の利便性を考えると自宅から職場まで歩いて行ける場所(人口が密集されると思われる)が下谷区、浅草区(現在の台東区)だったのではないかと思う。また、浅草は「品川湊、江戸湊」と並び水路が発達している港町であったことも一考の余地があるように思う。

  ~チョイと出ましたあきれたぼういず♪暑さ寒さも吹き飛ばし、
  春夏秋冬明けても暮れてもうたいまくるが♪あきれたぼういず~


川田義雄(後の川田晴久)、坊屋三郎、芝利英、益田喜頓、および山茶花究による日本のヴォードヴィル・ボーイズグループのテーマソングだ。端歌、小唄、歌舞伎などを各国のリズムにのせスイングした演奏は内務省の検閲に引っ掛かり発売禁止となるが風刺精神溢れた歌詞は幅広い層に受け入れられ、瞬く間に人気が高まっていった。復活後の彼らが活躍した場所が、当時浅草6区に吉本興業がオープンした「浅草花月劇場~吉本ショウ」であった。

一時は一大繁華街として名を馳せ、大衆芸能の中心地として栄えた場所。下町には疎い自分がパッと思うだけでも 浅草オペラ、寄席、ストリップ小屋、エノケンを初めとする数々の東京芸人やニューイヤー・ロック・フェスティバル、サンバ・カーニバル等はすぐに思いつく。
そして、それと同時に一対の"影"の部分もまた然りだ。阿佐田哲也ら戦後闇市派が描いた闇と飢えの世界。梶原一騎が自分達に教えてくれた、"あしたのジョー的世界観"である。


─────そんなことをつらつらと考えながら、
浅草六区のメイン・ストリートまで来た。
一向に止まない雨…
けれど、家族連れや外国人旅行者たちは
のんびりと浅草観光を楽しんでいるようだ。

かつての浅草オペラ跡地は今やフットサルのコートに変貌しており、
若者達はゲームセンターやカラオケボックス等で専ら最新機械と戯れている。その傍ら、ひっそりと其処此処に佇む初老の男達の姿は
皆一様に所在無さげで、どこか打ちひしがれたように滲んでみえた。

やはり、今日巡った場所は もう音楽を必要としていないのかもしれない…
最終便の水上バスから見た街の灯りが 橋を潜るたび遠くに消えてゆく。
エンジンの音と共に…

小雨降る夜は なぜか淋しくて…
  ワン・レイニー・ナイト・イン・トウキョウ
  遣る瀬無い雨よ…


【 text by DJ with gkz,電気羊   photo by gkz   edit by 電気羊】